太田城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報【歴史】 戦国時代の紀伊国紀ノ川下流域では、各村の代表者が集まり、「雑賀五組(搦)」と呼ばれる地縁的な集団が形成された。 彼らは一般的に鉄砲で武装した傭兵集団「雑賀衆」で知られ、雑賀五組のうち雑賀荘は雑賀城を本拠とし、宮郷の本拠となったのが太田城だった。 雑賀五組は地域内の相論の裁定にあたるとともに、紀中の奉公衆湯河氏ら外部の勢力とも交渉し、「共和国」とも評されるような独立した権力体となっていたと、ルイス・フロイスの『日本史』にある。 雑賀衆は天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで徳川家康に与し、根来衆や湯河氏とともに豊臣秀吉に敵対した。 そのため秀吉は翌天正13年(1585年)3月、敵対勢力を滅ぼすため大軍を率いて泉南・紀伊に攻め込んだ。 泉南の一揆勢を滅ぼした秀吉は3月23日に根来寺(根来城)を焼き討ちし、秀吉の本隊は雑賀衆の制圧にあたり、仙石秀久の手勢は南の湯河氏を攻めた。 その結果雑賀衆の主要人物の一人である土橋平丞は3月24日に逃亡し、湯河直春も27日までには小松原館から逃走したと『小早川家文書』『専徳寺文書』に記されている。 こうして紀伊の反秀吉戦線は早々に崩壊するが、一揆勢の残党が太田に集まり、秀吉方の陣夫から荷物を押し取るなどの狼藉を働いた。 秀吉が紀伊に攻め込んだ当初、太田の百姓らは秀吉に抵抗する意思がないことを説き、秀吉から赦免を受けていたと「紀州御発向之事」にある。 しかし秀吉の軍事行動を妨げるものが太田に集まったことが発覚したため、秀吉は太田城を包囲することを決定した。 『専徳寺文書』によると、秀吉は最初太田の集落を鹿垣で囲い兵糧攻めにするつもりだった。 ところが一揆勢による路地の封鎖などが相次いだため、見せしめのために水攻めにすることにしたと『山本家文書』にある。 こうして備中高松城、忍城と並び称される太田城の水攻めが始まった。 秀吉勢は太田城の周囲に全長5キロメートル以上もの堤を袋状に築き、紀ノ川南岸を流れる宮井川の水を引き込んだとされる。 堤は4月5日頃には完成し、導水が行われたが、その後宇喜多氏が担当した箇所が破堤したと『イエズス会日本年報』に記されている。 13日頃にはその修理が完了し、再び水攻めが行われたため、太田の人々は蜂須賀正勝を介して秀吉に赦免を願い出た。 22日には一揆勢の主謀者50人を処刑し残りの百姓を助命するという条件で和睦が成立した。 『多聞院日記』『太田家文書』『中家文書』には、百姓らは秀吉方に武具を差し出し、生活用具と当座の食糧を持って太田を後にしたとある。 太田城の水攻めの終結とほぼ同時に秀吉の弟秀長によって和歌山城の築城が進められ、紀伊は統一政権の支配下に置かれることとなった。 【城郭構造】 太田城の姿は、一連の戦闘の状況を描いた軍記物に依拠して長らく語られてきた。 『太田水責記』などによると、太田城は東西二町半、南北二町の規模で、周囲には大堀をめぐらせ、方々に櫓を設けた城であり、城内には武器・弾薬が多数備えられていたという。 現在は具体的な遺構をもとに検討が進められ、太田城は弥生時代以来の集落遺跡である太田・黒田遺跡の一角と考えられている。 発掘調査では幅約10メートルを上限とする16世紀の溝が数ヶ所で確認され、これらは明治時代の地籍図に見える水路と重なる。 これらの情報をもとに、太田城は東西約450メートル、南北約350メートルの規模の環濠集落であるという説が有力となっている。 太田集落を囲う溝は、周辺の用水体系のなかに位置づけあれ農業生産との関わりが考えられ、集落を防御するためだけに設けられたものではないとされる。 また集落の範囲を明確にする境界としての役割もあったと思われる。 太田は東西南北の十字路を機軸とし、一定の計画性のもとで集落が形成され、溝が他との隔絶性を示していた。 また発掘調査では鉛製の鉄砲玉がいくつか発見され、これらは太田城で雑賀衆によって製造されたと考えられている。 太田城の本丸跡と伝わる来迎寺の境内には城跡碑が建っており、寺の北東隅にある小山塚は戦死した一揆衆の首を埋めた塚の一つとされ、もとは100メートルほど南東にあった。 太田城の環濠は横長の楕円に近い形状で、北側のみ二重になっていたと考えられている。 現在、環濠は全く残っていないが、北東部については当時の環濠に沿う形で道がつくられ、その東を旧大門川が北に蛇行して流れる。 旧大門川の南を東西に流れるのが太田用水路で、秀吉方が水攻めの際に水を引き込んだ宮井川の一部にあたる。 旧大門川に沿って北に向かうと出水堤があり、これは水攻めの際に秀吉方築いた堤の一部とされる。 基底部は最大で31メートルにおよび、築堤が大規模に行われたことを物語っている。 太田城を水攻めにした際の築堤をめぐっては、それがあまりにも大掛かりであることから疑問視する見解もある。 現存する出水堤の南側に太田城があったとすれば、はるかに少ない労力で水攻めが可能であるという。 しかし豊臣期の政治動向をめぐる近年の研究では、太田城の水攻めが統一戦争の一環で行われたことが重視され、短期間で大規模な築堤を成し遂げたことに政権としての画期性が見出されている。 【観光情報】 JRの和歌山駅の東口を出て徒歩10分ほどで太田城跡に着くが、遺構はほとんど残っていない。 太田城跡とは逆側の、和歌山駅西口を出て徒歩10分ほどの所には大立寺があり、ここに太田城から移築したとされる山門がある。 大立寺は和歌山駅から和歌山城へ向かう途中にあるので、和歌山城を訪れる際に立ち寄ってみてもいいだろう。 戦国の鉄砲傭兵集団「雑賀衆」で知られる「雑賀五組」のうち、宮郷の本拠となった城。 太田城は『太田水責記』などに書かれた、周囲に大規模な堀を巡らし要所に櫓を備えた城として認識されてきたが、現在は弥生時代以来の集落遺跡である太田・黒田遺跡の一角と考えられ、明確な防御施設を持った城というよりは環濠集落であるという説が有力となっている。 雑賀衆は小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉に敵対したため、秀吉は天正13年(1585年)に紀州征伐を行い、備中高松城、忍城と並び称される太田城の水攻めが行われた。 太田城水攻めが終わると同時に秀吉の弟秀長によって和歌山城の築城が進められ、紀伊は統一政権の支配下に置かれた。 現在、太田城の遺構は都市開発によってほぼ失われており、本丸跡と伝わる来迎寺に石碑があり、大立寺に太田城から移築したという山門が残っている。また環濠はほぼ埋め立てられ、秀吉方が水攻めをする際に築いた堤防の一部が出水に残る。
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