太田城 のバックアップ(No.1)
現実の城情報【歴史】 雑賀衆は天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで徳川家康に与し、根来衆や湯河氏とともに豊臣秀吉に敵対した。 こうして紀伊の反秀吉戦線は早々に崩壊するが、一揆勢の残党が太田に集まり、秀吉方の陣夫から荷物を押し取るなどの狼藉を働いた。 秀吉勢は太田城の周囲に全長5キロメートル以上もの堤を袋状に築き、紀ノ川南岸を流れる宮井川の水を引き込んだとされる。 【城郭構造】 太田集落を囲う溝は、周辺の用水体系のなかに位置づけあれ農業生産との関わりが考えられ、集落を防御するためだけに設けられたものではないとされる。 太田城の本丸跡と伝わる来迎寺の境内には城跡碑が建っており、寺の北東隅にある小山塚は戦死した一揆衆の首を埋めた塚の一つとされ、もとは100メートルほど南東にあった。 太田城を水攻めにした際の築堤をめぐっては、それがあまりにも大掛かりであることから疑問視する見解もある。 【観光情報】
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