刈谷城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報水野勝成や水野忠邦を出した、徳川将軍家との縁も深い水野氏の居城。水野氏は『寛政重修諸家譜』によると清和源氏の一族で、源経基の次男・満政を祖とし、7代浦野重房の時に尾張知多郡阿久比郷小河に移住して小河氏を名乗り、その子重清が水野氏を名乗ったという。 15世紀半ばには水野貞守が小河に緒川城を築き、水野忠政の代の天文2年(1533年)に刈谷城を築いて本拠を移した。当時の水野氏は近隣の松平氏とともに今川氏に仕えており、松平氏とは婚姻を繰り返していた。天文10年(1541年)には忠政の娘・於大が松平広忠に嫁ぎ、竹千代(後の松平元康、徳川家康)を産んでいる。 15世紀半ばには水野貞守が小河に緒川城を築き、水野忠政の代の天文2年(1533年)に刈谷城を築いて本拠を移した。なお、刈谷城の前身に刈谷古城があったと刈谷市教育委員会(刈谷市史)は主張しているが、史料には刈谷古城(元刈谷城)の記述は一切ない。 当時の水野氏は近隣の松平氏とともに今川氏に仕えており、松平氏とは婚姻を繰り返していた。天文10年(1541年)には忠政の娘・於大が松平広忠に嫁ぎ、竹千代(後の松平元康、徳川家康)を産んでいる。 忠政の子・信元の代になると水野氏は今川氏から離反して織田氏につき、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは信元の弟・信近が城代として刈谷城を守っていたが、今川方の岡部元信に攻められ討死した。 桶狭間の戦い後に松平元康は今川氏から離反して織田信長と同盟を結び、この時に信元が二人を仲介したという。 続きをクリックで表示 天正3年(1575年)、信元は武田勝頼への内通を信長に疑われて殺害され、水野氏は一時断絶した。刈谷城は信長の家臣である佐久間信盛に与えられたが、信元の内通を讒言したのがこの信盛だったともされる。 刈谷城は三河最西部、逢妻川河口の三河湾の入江である衣ヶ浦に突き出た台地上に築かれ、衣ヶ浦に面して本丸が置かれた。本丸の周囲には細長い小規模な帯曲輪がめぐり、本丸を守っていた。
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