ラージプートの御三家と称されるラージャスターンのアンベール王家、マールワール王家、メワール王家のうち、マールワール王家が居城とした。 1459年、マールワール王ジョーダが自身の名を冠した新王都ジョードプルを建設・遷都した際に築かれ、この時二人の人柱を必要としたという。 マールワール王家は1532年に即位したマールデーオが王権強化策を進めたが、これに貴族が反発しマールデーオが次期国王に推した末子チャンドラ・セーンを支持せず、王家は分裂した。 そのような状況で進められていたのがムガル皇帝アクバルによるラージプート政策で、ラージプート御三家のうちアンベール王がいち早くアクバルに臣従し、ラージプートの武勇の象徴とされたメワール王家のチットールガル城が陥落したこともあり、マールワール王家もアクバルに服属した。 以後マールワール王家はアンベール王家とともにムガル帝国において重きをなし、代を重ねるごとにマンサブ(禄位)とジャーギール(給与地)が増大し、歴代のマールワール王は与えられた土地の所領化を進め、ジャスワント・スィングの時代にはジョードプル周辺六郡の一円支配が完成した。
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しかしこのようなマールワール王国の強大化はムガル帝国にとっては脅威であり、ムガル皇帝アウラングゼーブはその所領の没収を画策した。 ムガル帝国随一の猛将としても活躍していたジャスワント・スィングが1678年に死去すると、アウラングゼーブは直系の子孫を残さなかったことを理由にマールワール王国を併合し、メヘラーンガル城を占拠した。 アウラングゼーブがヒンドゥー教寺院の破壊やジズヤの復活を断行したこともあり、翌年にジャスワント・スィングの家臣ドゥルガー・ダースは王妃が産んだアジート・スィングを擁立した。 アウラングゼーブはマールワール王国に軍勢を送り、これに対し同じくアウラングゼーブに反発したメワール王ラージ・スィングがマールワール王国とともに反乱を起こし、ラージプート戦争が始まった。 メワール王国は1680年にラージ・スィングが急死したためムガル帝国に降伏したが、マールワール王国はゲリラ戦を展開し30年近くにわたって抵抗を続けた。 1707年にアウラングゼーブが死去するとアジート・スィングは王都ジョードプルを奪還してメヘラーンガル城に入城し、新たにムガル皇帝となったバハドゥール・シャー1世はアジート・スィングをマールワール王と認めて和睦が成立した。 アジート・スィングは勝利の記念としてメヘラーンガル城に「勝利の門」を建造したが、30年におよぶ戦争は人的・物的資源を大きく消費させ、以後マールワール王家が北インドに覇を唱える機会は失われてしまった。 その後もメヘラーンガル城はイギリス保護下のジョードプル藩王国時代も含め、1947年に藩王国が独立インドに併合されるまでマールワール王家の居城であり続けた。
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