玉縄城 のバックアップ(No.1)
現実の城情報【歴史】 玉縄城と大庭城は直線距離でわずか6.7キロメートルしか離れておらず、両上杉氏が共同で鎌倉公方足利成氏に対抗した享徳の乱(1455~1483年)の際に、山内上杉氏の玉縄城を扇谷上杉氏の大庭城が支援する体制だったと考えられる。 永正15年(1518年)に早雲は韮山城に隠居して嫡男の氏綱に家督を譲り、翌年に韮山城で死去した。 氏時は享禄4年(1531年)に没し、跡を継ぐ男子がいなかったため、氏綱の次男である為昌が玉縄城に入り二代目城主となった。 小田原征伐後、関東には徳川家康が配置され、玉縄城も徳川領に組み込まれた。 【城郭構造】 相模国には三浦氏が相模中央部の支配拠点とした岡崎城があるが、岡崎城は三浦高救・義同父子が城主だった永正2年(1505年)~永正9年(1512年)の間に主郭が拡張され周辺部に各曲輪が追加造成・配置された。 【観光情報】
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