上杉景勝の部将13名が壮絶な籠城戦を行ったことで知られる、上杉氏の越中支配の重要拠点となった城。西側を北陸街道の浜街道が通り、天然の堀の役割も果たしていた角川の河口には魚津港があった水陸の要衝だった。 建武2年(1335年)に椎名頼胤によって、椎名氏の本城である松倉城の支城として築かれたとされる。冷泉為広の『越後下向記』には延徳3年(1491年)に椎名氏の「椎名館」に宿泊したと記されており、この椎名館が魚津城の前身で戦国時代になって城郭として整備されたとも考えられている。 椎名氏は越中新川郡守護代としてこの地を治めたが次第に神保氏に押され、椎名康胤は上杉謙信と結んで神保氏に対抗した。しかし康胤は武田信玄に通じたため、魚津城は松倉城とともに謙信に攻撃され落城、上杉氏の支配下に置かれた。 謙信は魚津城に河田長親を城代として入れ、軍事拠点としての松倉城、越中と越後の中継拠点としての越中宮崎城とともに、越中統治の最重要拠点として魚津城を用いた。
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謙信の死後上杉氏が弱体化したことで織田信長による北陸への進出が本格化し、柴田勝家を主将とする北陸方面軍は越中西部の拠点である増山城を落とし、魚津城は越後を守る最前線となった。 魚津城では中条景泰をはじめとする13人の部将が決死の籠城戦を展開したが、織田の大軍に包囲されて窮地に陥り、再三に渡って上杉景勝に救援を要請した。 景勝は一時は魚津城の背後の天神山城まで出陣するものの、海津城の森長可や厩橋城の滝川一益など織田方が越後侵入の姿勢を見せ、また新発田城の新発田重家の反乱もあって居城である春日山城を留守にはできず、撤退した。 後詰が見込めなくなった魚津城だが最後まで降伏せず抗戦し、13名の部将全員が切腹して落城した。
落城の直後に本能寺の変の知らせを受けた織田軍は撤退し、魚津城は上杉氏が奪還したが、すぐに佐々成政に攻略された。 成政が肥後に移ると前田利家が入り城代が置かれたが、元和元年(1615年)に一国一城令によって廃城となった。 廃城後も魚津城跡には武器庫や米倉が置かれた備蓄基地となり、江戸時代の絵図には方形の本丸の北・東・南を二の丸が囲んで二重の水堀が巡らされ、海に面する西は海岸線に沿って柵が築かれ二重櫓が配された姿が描かれており、加賀藩の重要拠点だったことがうかがえる。
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