戦国時代、江北の京極氏・浅井氏と江南の六角氏との間に位置した境目の城。 築城年代は明らかでないが、『今井軍記』には文明4年(1472年)に京極氏家臣の今井秀通が鎌刃城を攻撃したとの記事があり、応仁の乱の頃には築かれていたと考えられる。 江北・江南の境界には佐和山城を中心として北国街道沿いに太尾山城、浜街道沿いに朝妻城、そして東山道沿いに菖蒲嶽城・地頭山城とともに鎌刃城が展開し、浅井氏・六角氏がそれぞれ家臣を在番衆として入れていた。 鎌刃城はそのなかでも堀氏が在番衆としてではなく領主として地域支配の拠点とし、度々帰属先を変えていた。
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上記の文明4年(1472年)の攻防では堀次郎左衛門が京極氏に攻撃されたことから六角氏に属していたと考えられ、天文20年(1551年)には堀石見守が京極高広に寝返り、永禄2年(1559年)には浅井氏につき、以後鎌刃城は浅井氏の城となった。 元亀元年(1570年)に浅井長政が織田信長との同盟を破棄すると堀氏は織田氏につき、長政は鎌刃城に築城の名手として知られる百々越前守綱家を入れたが、姉川の戦い後に再び堀氏が入った。 その後天正2年(1574年)に堀氏は改易され、鎌刃城は廃城となった。
鎌刃城は標高384メートルの山頂から尾根伝いに曲輪を配した典型的な中世期山城で、江北では小谷城に次ぐ規模だった。 尾根筋には鎌刃の名にふさわしい、両崖が切り立った堀切が七条に渡って設けられ、また近江では数少ない畝状竪堀群が巡らされ防御が固められた。 主郭の周囲の高石垣をはじめ、主要な曲輪に石垣が用いられた。またそれまで中世期山城の建物は掘立柱建物が中心だったが、鎌刃城では大規模な礎石建物跡が発見され、のちの天守に通じる大櫓が建てられていたとされる。 このように鎌刃城は織豊系城郭以前の築城技術の到達点といえる城であり、平成17年(2005年)に国の史跡に指定され、平成29年(2017年)には続日本100名城に選定された。
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