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城井谷城 のバックアップ(No.3)
現実の城情報
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| 所在地 | 福岡県築上郡築上町寒田 |
| 現存状態 | 特になし(城の一部として用いられた自然地形がいくつか残っている) |
| 城郭構造 | 山城 |
城井氏謀殺のその後(クリックで表示)
黒田氏による城井氏謀殺は徹底的なものであったことが知られ、
鎮房は黒田氏によって中津城で謀殺、城井谷に残っていた父長房らは黒田氏によって攻め滅ぼされ、当時肥後国人一揆の鎮圧のために出陣していた朝房も暗殺されている。
さらには、鎮房についてきた家臣も残らず討ち死にし、人質となる予定だった鶴姫は磔にされた。
このように客観的に見れば残虐と言わざるをえないほどの仕打ちが行われたわけだが、当時は祟りや怨念というものが強く信じられていた時代であり、
長政は中津城内に城井神社を設立し、鎮房を祀ることでこれを和らげようとしており、城井神社の伝承では、後に黒田氏が移った福岡の警固神社も実際は鎮房を祀ったものであると主張がなされている。
また、江戸時代中期以降黒田氏に男子が産まれず養子相続が続き、明治維新後には藩知事を解任されるなどしたことについても、城井氏の怨念によるものという説が囁かれたと言われており、この出来事が黒田氏にとっての負の歴史であったさまがうかがえる。
城井氏と艾蓬の射法(クリックで表示)
城井氏は鎮房らが将軍足利義輝に謁見するなど、中央とも繋がりを持っていたが、
これは城井氏には一子相伝の弓の射法「艾蓬の射法」が伝えられていたことと関係があるとされている。
事実、長房の父正房は足利義稙にこれを披露したことが記録に残されている。
この艾蓬の射法であるが、神功皇后が三韓征伐の際に用いたものが伝えられたものとされており、非常に歴史と格式あるものであった。
秀吉は朝鮮出兵に際し、これにあやかり艾蓬の射法を披露することを考えたが、それを伝える城井氏は結局のところ秀吉が原因で滅ぼされていたため最早それを知るものはなく(真似事は行われたという)、秀吉はこれについて自身の判断を悔いたと言われている。
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