東北三名城の一つである若松城(会津若松城)の別名。 以下、会津若松城の贈り物イベントでの台詞を参照。
豊臣秀吉の奥州仕置の後、蒲生氏郷が黒川城を大規模に改修し、その際に名称も会津若松城に改める。 大きな望楼型七重の天守の翼を広げたような形が、鶴ヶ城とも呼ばれている由来である。 天守の赤瓦は雪に強く割れづらく、頑丈な城はまさしく堅忍不抜の会津士魂を象徴していた。
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氏郷は、幼少の頃から英才の誉れが高い人物であり、あの信長が「目差しがただ者ではない。我が娘の婿としよう。」と評したほどである。 その後、秀吉に仕えてこの城の城主となるが、伊達政宗を警戒した秀吉が、その抑えとして氏郷を派遣したとも伝えられている。 茶湯にも深い理解があり、千利休にも「文武二道の御大将にて、日本におゐて一人、二人の御大名」と称賛された。 また、熱心なキリシタンでもあり、宣教師オルガンティノは、ローマ教皇に「合戦の際、特別な幸運と悠木のゆえに傑出した武将である。」と報告している。
幕末当時、城主であった松平容保は、幕府のために京都守護職を務め、尊皇派の長州、薩摩と戦った。 だが、形勢は日増しに不利となり、ついに敵は城下にまで迫ってきた。 ここで、山本八重がスペンサー銃で敵を迎え撃ったのは有名である。 この戦いでは数多くの悲劇があったが、中でも白虎隊のことは忘れてはならない。 16、17歳の少年たちからなる白虎士中二番隊は、戦いの最中、他の隊とはぐれて孤立してしまう。 そしてようやくたどり着いた飯盛山から城を見た際、燃えさかる城下の炎を城が燃えていると錯覚し、落城したと思い込んでしまう。 衝撃を受けた隊士たちは、「城が落ちてしまった以上、生きていても仕方がない。」と一人を残して全員自害してしまったのだ。
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