頭崎(かしらざき)城は安芸の国人平賀氏が拠点として用いた安芸国内有数の規模を持つ山城である。 標高504mの頭崎山を利用した山城で、その城域は東西900m、南北600mと極めて大規模であり、安芸では吉田郡山城に次ぐ規模を誇っている。 藤原北家良房流である平賀氏は古くは御薗宇城?を拠点としていたが、中世の武士居館的な性質も持ち合わせていたため防御面に難があった。 それを解決するため平賀弘保は文亀3年(1503年)に白山城を築き拠点を移したが、大永3年(1523年)の鏡山城攻防を受け、さらに堅固な城を求め築いたのが当城である。
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最初、頭崎城には弘保の嫡男興貞が入ったが、興貞は尼子氏の傘下に入り大内氏に従っていた父弘保や自身の子である隆宗らと対立した。 天文9年(1540年)、吉田郡山城攻めに失敗した尼子氏の勢力が安芸から後退すると、頭崎城は大内氏の命を受けた毛利元就の攻撃を受け落城し、興貞は出家、かわって隆宗が平賀氏の家督を継ぐこととなった。 その隆宗が天文18年(1549年)の神辺合戦において討ち死にすると、平賀氏はその弟である広相に家督を継がせようとしたが、大内義隆が横やりを入れ自身の寵童を平賀隆保として強引に家督を奪った。 天文20年(1551年)に大寧寺の変が起こり、陶晴賢に協力することで安芸・備後の国人をとりまとめる地位の確約を得た毛利元就が安芸国内の大内方国人衆を攻撃し始めると、広相はこれに呼応し頭崎城にいた隆保を攻撃、毛利氏の支援の元落城させた。 隆保は槌山城に逃れて抵抗するも自刃、これを受けて広相が平賀氏の当主となり、以降安芸平賀氏は毛利氏の下で活躍することとなる。 その後も平賀氏の拠点の1つとして精力的に拡張が行われていたが、毛利氏の防長移封の際に廃城となった。
城跡は頭崎山の山頂付近から麓にまで広がり、とりわけ山頂の本丸にあたる甲ノ丸には、永禄期頃に築かれたとみられる石垣が残っている他、往時の曲輪にあたる削平地が比較的綺麗に残されている。 また主要な城域周辺には畝状竪堀や土塁が配され、厳重な防御態勢が引かれていたことなどが後代の発掘調査等で判明している。 城周辺には家臣の屋敷などが置かれ、それが現在でも地名となって残っており、戦国期の国人領主の統治の形を考える上で重要な情報を現在に伝えている。
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