武蔵松山城 のバックアップ(No.2)
現実の城情報
【城郭構造】 武蔵松山城の縄張を見ると、曲輪の折れ、横矢掛かり、馬出などの技法が見られるものの、現地に立つと杉山城や武蔵小倉城のような技巧的な側面は強くは感じられず、縦横にめぐる広大な堀の圧倒的な威圧感が何よりも感じられる。 武蔵松山城の根古屋は城の北東に位置し、ここに足軽衆の集落があり、根古屋から城の南東の山の根にかけてが武蔵松山城の城下町だった。 【歴史】 天文15年(1546年)4月、川越城の戦いで扇谷上杉氏は滅亡し、扇谷上杉方の太田資正は武蔵松山城から上野国に逃れた。 しかし川越城の戦いの後に越後国へ逃れた上杉憲政は、長尾景虎(上杉謙信)に上杉氏の名跡と関東管領職を譲って北条氏討伐を要請し、謙信は永禄3年(1560年)に挙兵し関東に出兵した。 その後の武蔵松山城は一時北条氏の直轄となった後、永禄12年(1569年)の武田信玄と三増峠の戦いで武功を挙げた上田朝直が武蔵松山城主に復帰し、以後上田氏が支配するようになった。 豊臣秀吉との対決が迫った天正18年(1590年)2月には武蔵松山城主の上田憲定は小田原城詰めを命じられた。 小田原征伐後に徳川家康が関東に入封してからは、松平家広が武蔵松山城主となって松山藩となる1万石を領した。
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