江戸時代に長門・周防二ヶ国を支配した長州藩毛利氏に属する三支藩の筆頭・長府藩の藩庁。 天慶3年(940年)に藤原純友の配下・稲村平六景家がこの地を支配していたとされるが詳細は不明で、鎌倉時代には蒙古襲来の際に敵兵の首を海岸に埋めたことから「首崎」と呼ばれ、そこから「櫛崎」「串崎」の地名になったという。 戦国時代には大内氏・毛利氏に仕え、長門守護代を務めた内藤隆春が櫛崎城を築城した。 現在の下関市の南部、周防灘に突出する半島の高台に築かれ、馬関海峡を押さえる要衝の城だった。
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関ヶ原の戦い後に中国地方八ヶ国から周防・長門二ヶ国に減封された毛利輝元は萩城を居城とし、東の守りには岩国領に吉川広家が入って岩国城を築き、西の守りとして長府藩に毛利秀元が入り櫛崎城を居城として修築し、雄山城と改称した。 秀元は関ヶ原の戦いでは毛利家中でも主戦派で、「宰相殿の空弁当」の逸話でも知られるように、東軍に内応していた広家とは対立し、江戸時代においても長府藩と岩国領の間には確執があったという。
元和元年(1615年)には一国一城令によって櫛崎城は廃城となり、城の西麓に居館が築かれ、以後は長府陣屋と呼ばれた。 長府藩は長州藩の3つの支藩のなかでも筆頭の地位にあり、本家である長州藩に後継ぎがいなくなった場合には長府藩から養子が出され、3代藩主綱元の子・元倚と8代藩主匡敬が、それぞれ長州藩の4代藩主吉元、8代藩主重就となっている。 長府陣屋は幕末にフランス艦からの砲撃で被害を出し、外国に対する防衛に不利なことが明らかになったため、藩庁は勝山御殿へと移転した。
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