鎌倉時代以来、16代400年近くに渡って筑前朝倉地方を支配した秋月氏の本拠地。 秋月氏は藤原純友を討伐した大蔵春実を祖とし、初め原田の地に土着し原田氏を名乗っていたが、建仁3年(1203年)に原田種雄が秋月の地に入って秋月氏を名乗り、古処山城を築いて居城とした。 古処山城は標高859.5メートルの古処山に築かれた堅城で、山頂から西と南に伸びた尾根に曲輪群が設けられ、これらが畝状竪堀群によって守られていた。 戦国時代、秋月氏は少弐氏・大内氏・大友氏と次々に主君を変え勢力を保っていたが、弘治3年(1557年)に秋月文種が大友氏から離反し毛利氏につくと古処山城は大友氏の猛攻に遭って落城し、文種は自害し秋月氏は一時滅亡した。
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その後文種の次男・種実は毛利氏の支援を得て古処山城を奪還し、大友氏の衰退に乗じて筑前を中心に筑後・豊前まで勢力を広げ、秋月氏の最盛期を築いた。 やがて島津氏が筑前に侵攻してくると種実は島津氏に従属し、島津忠長とともに大友氏の重臣・高橋紹運が守る岩屋城を攻撃している。 しかし天正15年(1587年)には豊臣秀吉の九州征伐軍が筑前に侵攻し、種実は古処山城に籠城するが、秀吉軍は種実が放棄した益富城を一夜で修復したように見せかけたことで種実は戦意を喪失した。 種実は降伏後に日向高鍋に移され、古処山城は廃城となった。
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