天正13年(1585年)、羽柴秀吉の紀州攻めや四国攻めの戦功により近江八幡43万石を得た秀吉の甥・秀次が標高271.9メートルの八幡山に築いた城。城郭部分・居館部分に分かれており、山頂に城郭部分が配置された。 麓には居館が設けられ、平成13年(2001年)には居館跡から金箔瓦や秀次の馬印などが発掘されている。 また、城下町は安土城より町民を移したと言われ、八幡堀の構築や楽市令の発布などが行われ、城下町が形成されていった。 築城とともに田中吉政が秀次の筆頭家老格となり、水口岡山城に中村一氏、長浜城に山内一豊、佐和山城に堀尾吉晴、竹ヶ鼻城に一柳直末が配されて城郭網が整備され、八幡山城は豊臣政権による近江支配の中心となった。
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しかし、秀次は天正18年(1590年)に織田信雄が下野国烏山2万石に減封されると清洲城に移封となり、代わって京極高次が入城し、秀吉との不和により文禄4年(1595年)に秀次は切腹した。 同年に高次は大津城に移り、八幡山城は廃城になったが、石垣は良好な状態で残り本丸跡には瑞龍寺が建立されている。 また、八幡山ロープウェーは「恋人の聖地サテライト」に認定され、山頂でもいくつかのモニュメントが作られている。
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