ノイシュヴァンシュタイン城・ホーエンツォレルン城と並び称される、高さ70mの山にある「ドイツ三大美城」の1つである。エルツ城とも。 始まりは1152年、主要ルートからは外れてはいるが、帝国の交易ルートの1つで戦略拠点であったので、 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がルドルフ・フォン・エルツに命じて築かせた。 このロマネスク様式の住居部分が現存しており、煙突・アーチ窓はドイツ最古の物である。
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1268年、エリアス・ヴィルヘルム・ディートリヒ3兄弟で相続争いが起きると、3家で分けられ共同相続となった。 この共同相続城は歴史上見られるが、実際どういう統治が行われたか分かっていない所も多いが、エルツ城は建物・歴史がきちんと残っている数少ない城である。 なお、山城で土地が少なかったため上へ上へと増築されていったので、時代様式別が組み合わさった歪な感じがある。 1331年、選帝侯トリーア大司教のバルドゥイン・フォン・ルクセンブルクが推した兄が皇帝になると拡大に勤しんだ為、これに対抗した。 同年、大司教軍が攻め寄せるもこれを防ぐが、今度は北側に陣城トルツェルツ城が築城され、投石機等での攻撃や兵糧攻めが行われ、 2年後の1333年、降伏しトリーア大司教に仕える騎士となった。なおこれが唯一の戦闘経験である。 1490年、ローデンドルフ家の娘と結婚すると、新たに4つ目の別家ローデンドルフ家が城内に建てられた。 1567年、ヤコブ・エルツがトリーア大司教に選ばれており、1624年にはハンス・エルツがトリーア大司教騎士団のトップになると、 以降トリーア騎士団はエルツ家が代々指揮を執る事となった。 1688年、プファルツ継承戦争が勃発すると、フランス軍によってコッヘム・ライヒスブルク城等、数々の城が破壊されたが、 エルツ家の1人がフランス軍将校であった為、何とか難を逃れることができた。 1794年から始まったフランス革命戦争で、フランス統治下に入るとエルツ家は移民とし扱われ、財産や領土の没収が行われたが、 エリアス家のフィリップ・エルツが所領を買い戻し、エルツ城も統一された。 1845年~1888年と2009年~2012年にかけて大修復工事が行われたが、歴史的価値が認められ大きく改変されることはなかった。 現在もエルツ家所有だが居住はしていない。ガイドツアーのみで城内に入れる。 2010年、日本城郭協会によってヨーロッパ100名城の1つに選定された。
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