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		岩屋城  のバックアップ(No.10)
		
		 
		
 現実の城情報  
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| 所在地 | 福岡県太宰府市浦城 | 
| 現存状態 | 土塁、堀切など | 
| 城郭構造 | 山城 | 
嗚呼壮烈岩屋城(クリックで表示)
天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友氏は島津氏に大敗し、衰退の一途を辿った。島津氏は天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで村中城主の龍造寺隆信を破り、筑後を制圧した後は筑前に侵攻することとなった。
天正14年(1586年)7月、島津軍は筑前の最前線にあたる岩屋城に迫った。この時岩屋城を守る城兵はわずか763人、対する島津軍は2万を超える大軍だったという。
島津軍の総大将島津忠長は降伏を勧告、実子の立花宗茂も岩屋城からの退去を勧めたが紹運はこれを拒絶。紹運は主家である大友家、そして宗茂の立花山城を守るため、玉砕覚悟の徹底抗戦を挑んだのである。
圧倒的な兵力差ですぐに決着がつくかと思われたが紹運指揮の下で城兵はよく守り、半月もの間籠城戦を展開した。
7月27日早朝、島津軍総攻撃。屍を越えて押し寄せる島津軍の猛攻で一人また一人と力尽きていく。本丸で指揮をとっていた紹運は、負傷者には自ら薬を与え励まし、死者には経を唱え弔っていたが、島津軍が本丸に侵入してきたため自らが大長刀を奮い奮戦、撃退するも紹運自身も数箇所に傷を負い、配下達も深手を負う。
最後を悟った紹運は扉に辞世の句「屍(かばね)をば 岩屋の苔に埋めてぞ 雲井の空に 名をとどむべき」としたため、高櫓に登りそこで切腹し果てた。享年三十九
残った家臣は後を追って殉死し、紹運以下763人の城兵はことごとく玉砕したという。
島津軍は岩屋城を攻略したものの被害は甚大で、その後立花山城を攻撃した際には宗茂によって撃退された。
宗茂はさらに撤退する島津軍を追撃し奪われた拠点を次々に奪回、ついには岩屋城をも取り戻した。後に宗茂が城主となった柳川城の「弔い合戦は望むところです!」という台詞はこれを表しているのかもしれない。
現在、岩屋城の本丸跡には「嗚呼壮烈岩屋城址」と書かれた石碑が建てられており、激戦の舞台だったことを偲ばせる。
二の丸には紹運の墓と戦没者慰霊碑が建てられている。岩屋城が落城した7月27日には毎年供養する人々が訪れ、紹運の菩提寺の西正寺で岩屋城合戦犠牲者追悼法要が行われる。法要は古くから代々行われ、50年毎に大きな法要を行っている。
なお、生き残った武将もいた。その一人が
落城の数日前に立花山城へ報告に向かっていた谷川大膳鎮実。
立花宗茂に報告をし紹運と共にしようと岩屋城に戻るも紹運達の玉砕後。
そして島津軍に捕縛され総大将・忠長の前に引き出される。
忠長の勧誘を断る谷川大膳。忠長はその毅然とした態度に感動し立花山城へ送り返した
宗茂に岩屋城の落城を報告する谷川大膳。
その様子に不穏な気配を感じた宗茂は彼の肩に手を置き
「大膳、お主が追い腹を切るというならそれは犬死でしかない。父上も喜ばれないだろう。
 これから私は島津軍と戦になるだろう。だから自分に仕え我が馬前で死んで欲しい」
その言葉を聞いた谷川大膳は号泣しその後の生涯を宗茂への忠節に捧げ
立花家の兵学師範となった。
隠居後は剃髪し『立心』を号し、岩屋城で散った主君、同僚達を弔いながら過ごした
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