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九戸城 のバックアップ(No.10)
現実の城情報
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| 所在地 | 岩手県二戸市福岡城ノ内 |
| 現存状態 | 空堀、石垣、土塁など |
| 城郭構造 | 梯郭式平山城 |
豊臣秀吉に最後まで抗った城(クリックで表示)
九戸氏の最後の当主である政実は、豊臣秀吉の奥州支配に最後まで抗った大名として一部で有名である。
南部氏には当初宗家の立場にあったとされる八戸南部氏や、戦国時代に台頭した三戸南部氏、そして九戸氏など有力な一族が分立し、主従関係が曖昧なままだった。
天正10年(1582年)、南部氏では当主の南部晴政とその嫡男晴継が相次いで死去したことによる宗家の跡継ぎ問題を発端とし、晴政の養子となっていた三戸南部の信直と九戸南部の政実が対立した。
さらに天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置で、三戸南部氏を宗家に有力一族が家臣として仕えることが取り決められた。
この時八戸南部氏や九戸南部氏は独立が認められることもあり得たが、八戸南部氏の政栄は南部氏の分裂を阻止するため、三戸南部氏に仕える道を選んだ。
一方で信直の宗家相続を不服とした政実は天正19年(1591年)に挙兵、信直はこれを独力で鎮圧することができず秀吉に救援を要請し、信直が結んだ豊臣氏と対抗する形になった九戸政実は、5000人の兵をもって九戸城に籠城した。
九戸城は豊臣秀吉が派遣した6万の奥州再仕置軍に包囲されたが、南部氏のなかでも精鋭の九戸党を率いる政実指揮の下、天然の要害である九戸城は容易には落ちなかった。
そこで再仕置軍は和睦を持ちかけ、政実は家臣や婦女子の助命を条件に開城した……、はずだったがこれは豊臣方の罠であり、女子を含め九戸一族は根絶やしにされたと伝わる。(実際、首を刎ねられた男女の人骨が出土している。)
これが世にいう九戸政実の乱であり、乱の終結をもって秀吉による天下統一は完成することとなった。
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