平安時代に起源を持つ歴史の古い城で、当初は財部城と呼ばれており、江戸時代に高鍋城と改名された。 神亀4年(727年)に柏木直綱が築いたのが始まりとされ、斉衝年間(854~857年)に土持秀綱が入って改修し、財部土持氏の祖となった。 平安時代末期には「土持七頭」と呼ばれる七家が栄え、財部土持氏は宗家の懸土持氏と並んで有力な一族だった。 鎌倉時代に日向に入った伊東氏は土持氏と縁戚関係を結んでいたがやがて対立し、長禄元年(1457年)に伊東祐堯が土持景綱が守る財部城を攻略し、財部城をはじめとする10城が伊東氏の支配下に置かれ、財部城は「伊東四十八城」の一つに数えられた。 財部城には伊東氏の日向下向以来の家臣である落合民部少輔が入り、以後財部城は落合氏が100年余りにわたって支配した。
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天正5年(1577年)に島津氏が日向に侵攻すると落合氏は島津氏に寝返り、財部城は島津氏の支配下となって川上忠智が城主となった。 島津氏は豊臣秀吉の九州征伐によって天正15年(1587年)に降伏し、その所領は薩摩・大隅と日向の一部を除いて没収・分割された。 財部には、筑前・筑後・豊前に36万石の所領を有した秋月種実が3万石で移され、種実は当初櫛間城に入った。 秋月氏は種実の子・種長が慶長9年(1604年)に財部城に居城を移し、慶長12年(1607年)から大規模な改修を行い、現在見られる縄張となった。 種長が築いた城は、山城だった中世財部城の根小屋があった丘の中腹部に本丸を設け、そこから一段下った平地に本丸を三方から取り囲むように二の丸が配置され、そのさらに一段下に三の丸を置き、北・南・東を堀で区切り、西は背後の山に堀切を設けた。 山頂部の詰の丸には慶長14年(1609年)に天守代用の三階櫓が建てられた。
寛文9年(1669年)から延宝6年(1678年)にかけては秋月種信が改修を行い、大手門をはじめとする城門、堀、本丸御殿などが増築された。 この工事の間の延宝元年(1673年)に「財部城」から「高鍋城」に改められ、以後高鍋城は高鍋藩秋月氏の代々の居城として明治維新を迎えた。 米沢藩主上杉鷹山の兄にあたる高鍋藩7代藩主の秋月種茂は数々の藩政改革を行い、安永7年(1778年)には藩校の明倫堂を創設した。 明倫堂は武士だけでなく農民にも門戸を開いて多くの人材を輩出し、現在でも種茂は名君として高鍋の人々に敬愛され、明倫堂の教えである人の道を育む心、精神文化に明かりを灯すという思いから、高鍋城灯籠まつりが開催されている。
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