江戸時代を通じて縣藩(のちの延岡藩)の藩庁となった城で、「縣城」「亀井城」とも呼ばれる。 縣の地は平安時代から土持氏が治めていたが、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐後に高橋元種が所領を与えられ、当初は縣松尾城に入ったが慶長6年(1601年)に縣城の築城を開始し、慶長8年(1603年)に完成すると居城を移した。 縣城は五ヶ瀬川と大瀬川の2つの川に囲まれた中州の標高53メートルの丘陵上に立地し、以前からあった土持氏の古城を近世城郭に改修したとされる。丘陵頂部の本丸を中心に二の丸・三の丸からなる本城と、そこから西側に位置する小丘陵に築かれた西の丸で構成された。 二の丸に築かれた高さ22メートルの高石垣は「千人殺しの石垣」と呼ばれ、礎石を外すと石垣が崩れ落ち多くの敵を倒す仕掛けになっていたとの伝承がある。 城の南と北を流れる河川を天然の水掘とし、河川から水を取り込んで丘陵の裾に内堀が巡り、城の東には南北に伸びる堀と土塁を挟んで城下町が整備された。
続きをクリックで表示
慶長18年(1613年)、元種は幕府によって改易された。津和野藩主坂崎直盛と津藩主富田信高との対立に巻き込まれ、津和野藩から出奔し信高に匿われていた水間勘兵衛(宇喜多左門)を元種が匿い、これを直盛が幕府に告発したことによって所領没収となったのだった。 この時宇和島藩主となっていた信高もまた改易されたが、ともに大久保長安事件に連座したため処罰を受けたというのが真相とされる。
元種は陸奥棚倉藩の立花宗茂の預かりとなり、翌慶長19年(1614年)に肥前日野江藩から有馬直純が縣城に入った。 この有馬氏の時代に城は大規模に改修され、本丸東側に天守代用の三階櫓、本丸枡形虎口には二階櫓門が築かれ、西の丸に置かれた藩主居館が以後の歴代藩主の居館となるなど、城の基本的な構造は有馬氏時代に完成した。 またこの時期の明暦2年(1656年)に有馬康純が今山八幡宮に寄進した梵鐘に「延岡城」の字が彫り込まれていることから、この頃に「縣城」から「延岡城」に改名されたと考えられている。 有馬氏は三代藩主有馬清純の時代の元禄3年(1690年)に、山陰村・坪谷村の領民が高鍋藩に逃散する山陰・坪谷村一揆が起こり、清純はその責任を問われ越後糸魚川藩に転封となった。
その後は三浦氏、牧野氏を経て延享4年(1747年)に陸奥磐城平藩から内藤政樹が入り、以後内藤氏は全て養子による相続で8代124年間にわたって藩主を務め、その間延岡城は大きな変化を加えられることなく明治維新に至った。 明治11年(1878年)には天守台に鐘楼を設け、今山八幡宮の梵鐘を移して時鐘とし、その様子を歌人の若山牧水が歌に詠んでいる。この時鐘は現在に至るまで130年以上にわたって時を知らせ続け、現在の鐘は昭和38年(1963年)に新たに鋳造された二代目のものとなっている。 城内には若山牧水の歌碑が立ち、毎年3月に牧水を偲ぶ「若山牧水歌碑祭」が行われ、また毎年6月10日の時の記念日に「城山の鐘まつり」が開催されている。 平成29年(2017年)には「延岡城」として続日本100名城に選定された。
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を表示
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を表示