室町時代、百地氏に築かれたとされる丘城で、伊賀流忍術の祖・百地丹波が城主だったともいう。 館跡だとされる青雲寺から東へ続く尾根を利用されており、東側の土塁が分厚く高くなっているが、南側の土塁は低く、一部がないため、往時は塀があったとも考えられている。 虎口は東側と北側にあり、東側には堀切を経て、曲輪が三段に築かれており、城跡は市内でも有数の規模であったとされる。 百地家の菩提寺でもある青雲寺には、百地丹波と恋仲になったために、百地丹波の妻に殺された式部という女性を弔ったとされる式部塚があり、縁切り祈願のお参りが現在も行なわれている。
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百地氏は、千賀地氏城の服部半蔵で知られる服部氏、藤林長門守城の藤林長門守で知られる藤林氏と並んで、伊賀上忍三家に数えられている。 しかし、百地丹波と藤林長門守は同一人物であったともされ、実態は詳らかではない。
天正7年(1579年)、織田信長の次男・信雄が独断で伊賀国に侵攻した際、百地氏、藤林氏ら伊賀衆は結束し伊賀丸山城を奇襲すると、信雄を伊勢国へ敗走させた。 織田の重臣・柘植保重が討ち死にするなど甚大な被害を出したために、信雄は信長に「次にやったら親子の縁を切る」と叱責されている。
石山御坊(石山本願寺)との抗争を収束させた信長は改めて信雄を総大将とし、天正9年(1581年)に5万の兵で伊賀国に侵攻することを決意した。 伊賀衆は比自山城、平楽寺(のちの伊賀上野城)に籠城するなど抵抗し、特に比自山城は何度も攻撃を防いだが、織田勢の総攻撃の前に柏原城に逃亡した。 その後、織田勢の調略を受けて内応する者が多く出ると伊賀衆は破綻し、城兵の命を助けることを条件に柏原城を開城して和睦した。 百地丹波はこの戦いで討死したが、近年の研究では百地丹波とは別人であり、百地丹波の孫とも言われる百地三太夫は柏原城から脱出し、根来寺(根来城)に落ち延びたとされる。 この戦いのあと、百地氏は「ももち」の「ち」が「血」を連想させることから「ももじ」と読み方を改めたとされている。
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