後北条氏と佐竹氏・宇都宮氏を中心とする北関東諸将との間で行われた、関東の覇権を決する戦いとなった沼尻合戦において、佐竹氏・宇都宮氏が本陣とした陣城。 相模小田原城を本拠地とする北条氏直は本能寺の変後に起こった天正壬午の乱を経て上野を制圧、次いで下野へと侵攻し、下野宇都宮城の宇都宮国綱と婚姻関係を結び同じく下野への勢力拡大を図っていた常陸太田城?の佐竹義重と衝突することとなった。 天正12年(1584年)5月初旬、両軍は三毳山南東麓の沼尻に集結し、後北条方は相模・武蔵・上野・下総・上総・安房の領国全土から軍勢を動員し、佐竹・宇都宮方には下総結城城の結城晴朝や下野唐沢山城の佐野宗綱、上野金山城?の由良国繁らが合流し、5月12日の段階で陣城が構えられていた。 この沼尻合戦は同時期に行われていた小牧・長久手の戦いと連動しており、また佐竹・宇都宮方が8,000丁以上の鉄砲を有していたことでも知られるが、大規模な合戦には至らず互いに陣城を構えての三ヶ月以上に渡る長期戦となった。
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7月15日に後北条方が沼尻の北側に位置する岩船山を奪取すると、沼尻から宇都宮への退路を断たれる形となった佐竹・宇都宮方は不利な状況に陥った。 これをきっかけに両軍の間で講和が進められ、7月22日に講和が成立、翌23日に開陣となった。 沼尻合戦以降、後北条氏は下野での勢力を拡大して関東における覇権を確立し、一方で佐竹氏・宇都宮氏は後北条氏と対立する豊臣秀吉への接近をさらに強めていくこととなった。
現在、沼尻合戦の陣城があった場所は沼沢が消滅し、溝などが見られるものの明確な遺構は確認できないが、「陣馬」「木戸内」など佐竹氏・宇都宮氏の陣城の名残を表す地名が残っている。
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