岩槻城 のバックアップ(No.1)
現実の城情報
【歴史】 やがて北条氏綱が武蔵へ侵攻を開始すると、岩槻城の勢力図は扇谷上杉氏方と北条氏方との間で目まぐるしく入れ替わるようになった。 朝興は甲斐武田氏の援軍を得てすぐに岩槻城を奪回し、資頼は朝興に帰参させられるが、翌大永5年(1525年)に渋江右衛門大夫の子三郎が氏綱を支援を受け岩槻城を攻撃、資頼は江戸城に後退した。 武蔵への北条氏の勢力拡大が著しくなると、資顕は扇谷上杉氏から離反していった。 永禄3年(1560年)の越後の上杉謙信の関東侵攻に伴い、資正をはじめとするかつての反北条氏勢力は上杉方につき、北条氏の勢力はいったん後退を余儀なくされた。 しかし松山城は永禄6年(1563年)に北条方の手に落ち、さらに岩槻城周辺を北条勢力が取り囲むようになる永禄7年(1564年)、資正・景時父子が国府台合戦に参陣し里見方として北条方と戦っている隙に、資正の子資房(氏資)が北条に内応したため資正は岩槻城を追われることとなった。 【城郭構造】 岩槻城は15世紀後半に築城されてから何度か改修されているが、特に天正18年(1590年)の小田原征伐の直前に大きな改修が行われた。 岩槻城の西側および南側の一帯には戦国時代から江戸時代にかけて武家屋敷と町屋、寺社他からなる城下町が形成された。
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