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		基肄城  のバックアップ(No.1)
		
		 
		
 現実の城情報  
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| 所在地 | 佐賀県三養基郡基山町・福岡県筑紫野市にまたがる基山 | 
| 現存状態 | 土塁、石塁、水門跡、門跡、礎石群 | 
| 城郭構造 | 古代山城(朝鮮式山城) | 
城跡構造と考察(続きをクリックで表示)
土塁跡・石塁跡においてはこの一帯の元来の険しい地形を利用ながら城内を取り囲んでいる。自然の急斜面頂部付近にある城内の境に城壁として土塁を巻いた形だ。
土塁構造は斜面に凭せかけて版築状の積土をおこなう内托構造のものと思われ、城外側の急斜面に対し城内側は平坦面を設けるという、外敵は攻めにくく内側は守りやすい工夫が施された。
また、基山山頂には屋嶋城にも用いられた夾築構造*1の土塁が発見された。
門跡は北帝門跡、東北門跡ともに明確な遺構が確認されている。北帝門は大宰府政庁から基肄城へ入城する正門であった。門の規模や隣接する城壁の様子から間違いなしと考えられている。
門構造としては北側に4メートル幅の通路があり、その両脇には石積み群が虚しくも残っているため、正門は二重の門であった可能性さえある。
城域の別の場所では炭化した米と米倉礎石群の発見があり、先に大宰府政庁跡の不丁地区溝跡から出土した天平7年(735年)の木簡*2から食料の貯蔵も基肄城の役目であった。
白村江の戦いの大敗退を機に築城された即席の防御施設の面を持ちながら、継続可能な施設としての計画があったことが出土品や遺構からうかがえる。
この性質は基肄城のみならず、周辺の古代山城の改築や修繕からみて、同様の向きがあった。
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