西国の外様大名の押さえとして天下普請で築かれ、岐阜城に代わって美濃統治の中心となった城。 美濃守護・土岐氏の本拠地である革手城を守るため、土岐氏の家宰で美濃守護代の斎藤利永が文安2年(1445年)に築いたのが始まりで、この頃は沓井城と呼ばれた。 斎藤氏はやがて稲葉山城を居城とし、沓井城は天文7年(1538年)頃には廃城となった。 新たな加納城は関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)年に破却された岐阜城に代わり、旧体制からの刷新の意味合いも込めて翌年から築城が開始された。
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縄張は徳川家康が自ら行ったとされ、本多忠勝を普請奉行として近隣諸大名を動員した天下普請で築かれた。 方形の本丸の周囲に馬出を配置するという構造は聚楽第型城郭の特徴を引き継ぐものであり、また本丸から外枡形が凸字型に突き出る形状は初期徳川系城郭の特徴を表し、このことから加納城型城郭と表現することもある。 加納城の築城に際しては廃城となった岐阜城の資材が転用され、天守の代用となった御三階櫓は池田輝政時代の岐阜城の天守を移築したものと伝わる。
完成した加納城は西国の外様大名を監視する役割を担ったため譜代大名が配置され、最初は家康の娘婿である奥平信昌が入って加納藩奥平氏3代の居城となり、以後戸田松平氏3代、安藤氏3代、永井氏6代と続いて明治維新を迎えた。
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