五龍城は関東の小田氏などと同じく八田知家を祖とする安芸の国人宍戸氏累代の居城である。 江の川とその支流本村川の合流点近くに突き出した半島上の丘陵に築かれた山城で、川を天然の堀に、尾根を堀切や土塁、石積み等で区切り防御が固められている。 常陸宍戸氏当主宍戸朝家(朝里)が足利尊氏の六波羅探題攻めで活躍し、建武の新政において安芸国甲立庄を得、南北朝期に入り同地に下向したのが安芸宍戸氏の始まりとされる。 最初は柳ヶ城を築いたが、防御の観点から五龍城を築き移り、以降宍戸氏の本拠となったというが、築城時期については異説もある。 名称は築城の際、水の手に不安があったこから五龍王を勧進して祈りを捧げたところ井戸に水が湧き出したことにちなんでであるという。
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室町期の宍戸氏は常陸の一族の出という(実際は庶家が家督を奪った可能性が指摘されている)という宍戸元家の代から勢力を広げ、 その子元源の代には東の三𠮷氏や西の毛利氏、北の高橋氏など、とりわけ毛利興元とは度々衝突を繰り返しながらも安芸北東部に確固たる地盤を築き上げた。 晩年には方針を転換し、孫である隆家の妻に毛利元就の娘(五龍局)を迎え入れるなど毛利氏と強力な同盟関係を結び、天文9年(1540年)の尼子氏の吉田郡山城攻めでは一族をあげて毛利元就を支援、備後からの尼子勢の侵入を防いだ。 以降も安芸宍戸氏は毛利家に協力し、また吉川元長や毛利輝元に娘を嫁がせるなど毛利氏と血縁関係を深め、吉川・小早川の両川とならぶ一門として扱われるなど毛利家中の重臣となった。 五龍城はこの間も宍戸氏の居城であったが、最終的に毛利氏の防長移封の際に廃城になった。
現在でも堀切や土塁、石積など当時を偲ばせる多くの遺構が残っており、また、宍戸隆家やその継室である小河内繁継姉の墓などが存在している。
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