鳥谷ヶ崎城 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報鎌倉時代から陸奥稗貫郡を支配した稗貫氏の室町時代から戦国時代にかけての本城で、鳥谷ヶ崎の地名は城の南東隅が北上川と豊沢川に向かって大きく突出する地形に由来するとされる。 続きをクリックで表示 稗貫氏が鳥谷ヶ崎城に本城を移したのは和賀・稗貫の乱後の15世紀半ば以降とされ、三の丸の発掘調査によって15世紀から16世紀にかけて大規模な城館が存続していたことが判明している。 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に際し、稗貫広忠は小田原に参陣しなかったために稗貫氏は改易され、同年に浅野長吉が和賀・稗貫郡で検地を行い、鳥谷ヶ崎城には浅野重吉が入った。 同年10月、広忠は和賀義忠とともに和賀・稗貫一揆を起こし、かつての義忠の居城だった二子城を奪還し、さらに鳥谷ヶ崎城も包囲した。 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に際し、稗貫広忠は小田原に参陣しなかったために稗貫氏は改易され、同年に浅野長吉が和賀・稗貫郡で検地を行い、鳥谷ヶ崎城には浅野重吉が入った。 同年10月、広忠は和賀義忠とともに和賀・稗貫一揆を起こし、かつての義忠の居城だった二子城を奪還し、さらに鳥谷ヶ崎城も包囲した。 落城寸前となった鳥谷ヶ崎城には南部信直が救援に駆け付け、城を守っていた重吉は信直に救出されて三戸に逃れ、広忠は鳥谷ヶ崎城の奪還と旧領の回復に成功した。 しかし翌天正19年(1591年)になって南部領で九戸政実の乱が起こったこともあり、秀吉は奥州再仕置軍を派遣した。広忠と義忠はこれを迎え撃ったが敗れ、和賀氏・稗貫氏は没落した。 和賀・稗貫一揆の鎮圧後、和賀・稗貫郡は南部信直に与えられ、重臣の北秀愛が郡代として鳥谷ヶ崎城に入り、花巻城と改称された。
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