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> 穴水城
穴水城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 穴水城は小又川河口近く、現在の穴水町役場南東の丘陵に築かれた山城である。 比高は高くないものの傾斜が中々厳しく、これを防衛に利用していたものと考えられる。 築城時期ははっきりしていないが、主説としては南北朝期に長氏によって築かれ、戦国期までその居城として利用したとされている。 長氏は、滝口の武士として以仁王に仕え、平家物語にもその名が見られる長谷部信連を祖とするとしており、室町期には能登守護畠山氏の重臣の一角を占めていた。 戦国期に入ると、畠山氏の権威の低下とそれに伴う重臣間の対立の中で、穴水城も戦火にさらされることとなる。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 戦国時代の長氏当主である長続連、綱連は衰退する能登畠山家中で実権を握るなど権勢を誇った。 しかし天正5年(1577年)の上杉謙信の能登侵攻による[[七尾城]]落城の際に、上杉家に内通した遊佐続光や温井景隆らによって[[七尾城]]内の長氏一族は皆殺しとなってしまう。 そして、穴水城も上杉家に奪われ越中国人長沢光国が城主となった。 織田家に援軍を求める使者として能登を離れていたため難を逃れた、長氏のたった2人の生き残りの1人孝恩寺(長続連三男)は援軍を連れてきたものの間に合わず、そのまま織田家に属し反撃の機会を窺った。 天正6年(1578年)上杉謙信が急死し北陸の上杉勢に混乱が生じると、これを機と見た孝恩寺は500人の手勢で穴水城を奪還、そのまま親の仇である遊佐続光らと争い、柴田勝家の支援も受け最終的に討ち果たした。 孝恩寺は天正8年(1580年)連龍と名を改め、能登を与えられた前田利家の与力の1人として、これに属した。 長連龍はその後も前田利家・利長親子に仕え、子孫は加賀八家の1つとして代々加賀藩家老職を務める重臣となり、維新後は華族となった他、現当主は穴水町の栄誉町民となっている。 穴水城は賤ヶ岳の戦いの戦後処理によって前田利家に加賀・能登の2国が与えられると名前が出てこなくなり、この頃に廃城になったと考えられている。 城跡は現在公園となっており堀跡などが確認できるほか、周囲には長氏関係の資料も扱う歴史民俗博物館や祖長谷部信連を祀る長谷部神社など、長氏に関係する施設も存在している。 }}} |BGCOLOR(#ddd):100|200|c |所在地|石川県鳳珠郡穴水町字川島| |現存状態|堀| |城郭構造|山城| #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){長氏の祖長谷部信連(クリックで表示)}; }}} #style(class=submenu){{{
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 穴水城は小又川河口近く、現在の穴水町役場南東の丘陵に築かれた山城である。 比高は高くないものの傾斜が中々厳しく、これを防衛に利用していたものと考えられる。 築城時期ははっきりしていないが、主説としては南北朝期に長氏によって築かれ、戦国期までその居城として利用したとされている。 長氏は、滝口の武士として以仁王に仕え、平家物語にもその名が見られる長谷部信連を祖とするとしており、室町期には能登守護畠山氏の重臣の一角を占めていた。 戦国期に入ると、畠山氏の権威の低下とそれに伴う重臣間の対立の中で、穴水城も戦火にさらされることとなる。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 戦国時代の長氏当主である長続連、綱連は衰退する能登畠山家中で実権を握るなど権勢を誇った。 しかし天正5年(1577年)の上杉謙信の能登侵攻による[[七尾城]]落城の際に、上杉家に内通した遊佐続光や温井景隆らによって[[七尾城]]内の長氏一族は皆殺しとなってしまう。 そして、穴水城も上杉家に奪われ越中国人長沢光国が城主となった。 織田家に援軍を求める使者として能登を離れていたため難を逃れた、長氏のたった2人の生き残りの1人孝恩寺(長続連三男)は援軍を連れてきたものの間に合わず、そのまま織田家に属し反撃の機会を窺った。 天正6年(1578年)上杉謙信が急死し北陸の上杉勢に混乱が生じると、これを機と見た孝恩寺は500人の手勢で穴水城を奪還、そのまま親の仇である遊佐続光らと争い、柴田勝家の支援も受け最終的に討ち果たした。 孝恩寺は天正8年(1580年)連龍と名を改め、能登を与えられた前田利家の与力の1人として、これに属した。 長連龍はその後も前田利家・利長親子に仕え、子孫は加賀八家の1つとして代々加賀藩家老職を務める重臣となり、維新後は華族となった他、現当主は穴水町の栄誉町民となっている。 穴水城は賤ヶ岳の戦いの戦後処理によって前田利家に加賀・能登の2国が与えられると名前が出てこなくなり、この頃に廃城になったと考えられている。 城跡は現在公園となっており堀跡などが確認できるほか、周囲には長氏関係の資料も扱う歴史民俗博物館や祖長谷部信連を祀る長谷部神社など、長氏に関係する施設も存在している。 }}} |BGCOLOR(#ddd):100|200|c |所在地|石川県鳳珠郡穴水町字川島| |現存状態|堀| |城郭構造|山城| #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){長氏の祖長谷部信連(クリックで表示)}; }}} #style(class=submenu){{{ **長氏の祖長谷部信連 『平家物語』には様々な武士が登場し、その中の1つに、武と忠をもって名を挙げる兵達がいる。 長谷部信連はそのような兵の典型的な例といえる人物であった。 先述のとおり、平家政権と後白河法皇の関係が悪化し、反平家の気運が高まっていたころ長谷部信連は滝口の武士として以仁王に仕えていた。 信連は以前にも6名からなる強盗を一人で4人切り捨て2人を生け捕りにしたという功績から左兵衛尉に任ぜられた剛の者であった。 以仁王は源頼政とともに反平家の挙兵を画策していたものの露見し、平家の命で捕縛しようとする役人が迫ってきていた。 信連はうろたえる以仁王を女装させた上で御所から脱出させ(この手法珍しくなかったりする)、忘れ物の笛に気づけば、追いかけ届けた上で単騎御所に戻った。 そして捕縛に来た役人と大立ち回りを繰り広げた後生け捕りにされた。 平清盛・宗盛の前に突き出された信連であるが、打ち首にしてやろうという宗盛にもうろたえることなく、役人と大立ち回りしとことには「盗賊と思った」と悪態をつき、以仁王の行く先についても「侍たるもの言わぬと決めたことを詰問されたぐらいで言うものであろうか」と黙秘した。 これを見た平家に仕える武士達は、かねてからの勇名とあわせ「これぞ一人当千の兵」と感嘆し、平清盛も思うところがあったか信連を伯耆国への流罪にとどめた。 その後、治承・寿永の乱で平家政権が倒れると、信連は梶原景時を通じて事の次第を鎌倉に伝え、源頼朝から安芸国検非違使所に補された上で能登国珠洲郡大家荘を与えられた。 }}} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)