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> 玖島城
玖島城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 日本初のキリシタン大名・大村純忠で知られる大村氏が、肥前大村藩の藩庁として12代に渡り居城とした城。 藤原純友の子孫を称する大村氏は正暦5年(994年)に肥前大村に入ったとされ、当初は大村館を居館、久原城を詰城とし、その後好武城を経て大村純忠が三城城に居城を移していた。 純忠の子・喜前は豊臣秀吉死後の戦乱に備えて新たな本拠地の築城に着手し、文禄・慶長の役での順天城の戦いの経験を活かし、玖島崎を新城の地に選んだ。 玖島崎は大村湾に突き出た北・西・南の三方を海に囲まれる要害の地で、その突端の丘陵上に本丸を置いて周囲を二の丸と三の丸が囲み、さらに城の近くの遠浅の海には、敵兵を欺くため海中に掘られた隠し堀である捨堀が設けられた。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 喜前は関ヶ原の戦いで東軍について所領を安堵され、先祖代々の地である大村に大村藩を立藩した。 慶長7年(1602年)、キリスト教を信仰していた喜前は日蓮宗に改宗した。これは熱心な日蓮宗徒である加藤清正の影響であるともされ、その縁もあって加藤氏と大村氏は親密な関係にあったという。 慶長19年(1614年)、喜前の嫡男・純頼は玖島城の大改修に着手し、唯一地続きとなっていた東側にL字型の巨大な角堀を設け、城を陸地から切り離した。 さらに大手口を本丸北側から二の丸南側に移し、つづら折れが連続する通路に高石垣を築く厳重な構えとなった。 この時築かれた石垣には親交のあった加藤氏の築城技術が導入されたといい、玖島城にも[[熊本城]]のような扇の勾配が見られる。 #br 元和2年(1616年)に喜前が急死し、家督を継いた2代藩主純頼もまたその3年後に急死、わずか2歳でその後を継いだ3代藩主純信も慶安3年(1650年)も急死し、例外的に末期養子を認められるなど、大村氏は度々断絶の危機に瀕した。 末期養子で家督を継いだ4代藩主純長の代でようやく藩政は安定し、玖島城内に九州初の藩校である集義館を開校するなど、大村藩発展の基礎を築いた。 純長は玖島城にも手を加え、城の南側に波を防ぐための波戸石を築き、三の丸の西端に藩主の御座船をはじめとする船舶を格納するためのドックである御船蔵を3基設けた。 以後は大きな改修は行われず、大村氏は転封が無かったことから古来より同じ領地を支配し続けた稀有な領主として明治維新を迎え、玖島城は廃城となった。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|長崎県大村市玖島| |現存状態|石垣、堀など| |城郭構造|連郭式平山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 日本初のキリシタン大名・大村純忠で知られる大村氏が、肥前大村藩の藩庁として12代に渡り居城とした城。 藤原純友の子孫を称する大村氏は正暦5年(994年)に肥前大村に入ったとされ、当初は大村館を居館、久原城を詰城とし、その後好武城を経て大村純忠が三城城に居城を移していた。 純忠の子・喜前は豊臣秀吉死後の戦乱に備えて新たな本拠地の築城に着手し、文禄・慶長の役での順天城の戦いの経験を活かし、玖島崎を新城の地に選んだ。 玖島崎は大村湾に突き出た北・西・南の三方を海に囲まれる要害の地で、その突端の丘陵上に本丸を置いて周囲を二の丸と三の丸が囲み、さらに城の近くの遠浅の海には、敵兵を欺くため海中に掘られた隠し堀である捨堀が設けられた。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 喜前は関ヶ原の戦いで東軍について所領を安堵され、先祖代々の地である大村に大村藩を立藩した。 慶長7年(1602年)、キリスト教を信仰していた喜前は日蓮宗に改宗した。これは熱心な日蓮宗徒である加藤清正の影響であるともされ、その縁もあって加藤氏と大村氏は親密な関係にあったという。 慶長19年(1614年)、喜前の嫡男・純頼は玖島城の大改修に着手し、唯一地続きとなっていた東側にL字型の巨大な角堀を設け、城を陸地から切り離した。 さらに大手口を本丸北側から二の丸南側に移し、つづら折れが連続する通路に高石垣を築く厳重な構えとなった。 この時築かれた石垣には親交のあった加藤氏の築城技術が導入されたといい、玖島城にも[[熊本城]]のような扇の勾配が見られる。 #br 元和2年(1616年)に喜前が急死し、家督を継いた2代藩主純頼もまたその3年後に急死、わずか2歳でその後を継いだ3代藩主純信も慶安3年(1650年)も急死し、例外的に末期養子を認められるなど、大村氏は度々断絶の危機に瀕した。 末期養子で家督を継いだ4代藩主純長の代でようやく藩政は安定し、玖島城内に九州初の藩校である集義館を開校するなど、大村藩発展の基礎を築いた。 純長は玖島城にも手を加え、城の南側に波を防ぐための波戸石を築き、三の丸の西端に藩主の御座船をはじめとする船舶を格納するためのドックである御船蔵を3基設けた。 以後は大きな改修は行われず、大村氏は転封が無かったことから古来より同じ領地を支配し続けた稀有な領主として明治維新を迎え、玖島城は廃城となった。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|長崎県大村市玖島| |現存状態|石垣、堀など| |城郭構造|連郭式平山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)