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> 相模岡崎城
相模岡崎城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 扇谷上杉氏の下で相模守護代を務めた三浦氏の城。相模への進出を開始した伊勢(北条)氏を10年以上に亘って阻んだ城として知られる。 鎌倉幕府成立に軍功のあった三浦一族の悪四郎義実が岡崎に居を構えて岡崎氏を称した。ただし義実が営んだ館はこの城とは別とされる。 康正2(1456)年頃、享徳の乱に乗じ三浦氏当主三浦時高が岡崎を手に入れ新しく城を築く。築城者は時高の養子・義同(道寸)とする説もある。 のちに義同と時高は家督相続をめぐって不仲となる。義同は出家して道寸と名乗るが、明応3(1494)年に時高が没すると三浦氏当主に就く。 道寸は三浦氏代々の[[三崎城]](新井城)には嫡男の荒次郎義意を置き、自分は岡崎城に入った。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 明応5(1496)年、道寸は山内上杉顕定に攻められた大森氏の[[小田原城]]を伊勢氏と共に救援したが落城し「相模西郡一変」と呼ばれた。 大森氏と小田原城はこの後山内上杉氏に従い、のち扇谷上杉家に要請された伊勢宗瑞によって落城して伊勢(北条)氏の主城となっていく。 その後、伊勢宗瑞が相模へ本格的に進出を開始したとき、その前に立ちふさがったのが三浦道寸と相模岡崎城であった。 岡崎城は「深さ測りようなし」とまで言われた西海地土腐(さいかいちどぶ)と呼ばれる深い湿地に接した丘の上にある要害の城だった。 守る道寸と攻める宗瑞の戦いは10年以上の長きに及んだが、それは同時に扇谷氏の有力軍三浦勢の兵力がここから動けなかったことも意味した。 永正9(1512)年、宗瑞はついに岡崎城を落とす。相前後して現在の藤沢市にあった[[大庭城]]も陥落し、相模中部から西は伊勢氏勢力圏となる。 道寸は鎌倉の住吉城を経て三浦城に撤退。三浦半島を舞台になお戦い続ける姿勢を見せ、これへの抑えとして[[玉縄城]]が築かれた。 岡崎城は伊勢(北条)氏の傘下に入るが、勢力の拡大で相模の情勢が安定してくると必要性が薄れ廃されたと思われる。 #br 低湿地帯に突き出した半島状の台地尾根上にメインの曲輪を3つ並べた連郭式の平山城で、曲輪の間は堀切で区切られていた。 その周囲に腰曲輪など小曲輪が配されていた。半島状の付け根には今も無量寺があるが、これも元は大規模な曲輪だった。 無量寺曲輪が本丸とも言われるが、縄張り的に考えれば中郭あるいは南郭を本丸とするのも妥当に思われ確定はしていない。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|神奈川県平塚市岡崎(一部は伊勢原市岡崎)| |現存状態|空堀、曲輪、土塁跡| |城郭構造|平山城|
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 扇谷上杉氏の下で相模守護代を務めた三浦氏の城。相模への進出を開始した伊勢(北条)氏を10年以上に亘って阻んだ城として知られる。 鎌倉幕府成立に軍功のあった三浦一族の悪四郎義実が岡崎に居を構えて岡崎氏を称した。ただし義実が営んだ館はこの城とは別とされる。 康正2(1456)年頃、享徳の乱に乗じ三浦氏当主三浦時高が岡崎を手に入れ新しく城を築く。築城者は時高の養子・義同(道寸)とする説もある。 のちに義同と時高は家督相続をめぐって不仲となる。義同は出家して道寸と名乗るが、明応3(1494)年に時高が没すると三浦氏当主に就く。 道寸は三浦氏代々の[[三崎城]](新井城)には嫡男の荒次郎義意を置き、自分は岡崎城に入った。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 明応5(1496)年、道寸は山内上杉顕定に攻められた大森氏の[[小田原城]]を伊勢氏と共に救援したが落城し「相模西郡一変」と呼ばれた。 大森氏と小田原城はこの後山内上杉氏に従い、のち扇谷上杉家に要請された伊勢宗瑞によって落城して伊勢(北条)氏の主城となっていく。 その後、伊勢宗瑞が相模へ本格的に進出を開始したとき、その前に立ちふさがったのが三浦道寸と相模岡崎城であった。 岡崎城は「深さ測りようなし」とまで言われた西海地土腐(さいかいちどぶ)と呼ばれる深い湿地に接した丘の上にある要害の城だった。 守る道寸と攻める宗瑞の戦いは10年以上の長きに及んだが、それは同時に扇谷氏の有力軍三浦勢の兵力がここから動けなかったことも意味した。 永正9(1512)年、宗瑞はついに岡崎城を落とす。相前後して現在の藤沢市にあった[[大庭城]]も陥落し、相模中部から西は伊勢氏勢力圏となる。 道寸は鎌倉の住吉城を経て三浦城に撤退。三浦半島を舞台になお戦い続ける姿勢を見せ、これへの抑えとして[[玉縄城]]が築かれた。 岡崎城は伊勢(北条)氏の傘下に入るが、勢力の拡大で相模の情勢が安定してくると必要性が薄れ廃されたと思われる。 #br 低湿地帯に突き出した半島状の台地尾根上にメインの曲輪を3つ並べた連郭式の平山城で、曲輪の間は堀切で区切られていた。 その周囲に腰曲輪など小曲輪が配されていた。半島状の付け根には今も無量寺があるが、これも元は大規模な曲輪だった。 無量寺曲輪が本丸とも言われるが、縄張り的に考えれば中郭あるいは南郭を本丸とするのも妥当に思われ確定はしていない。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|神奈川県平塚市岡崎(一部は伊勢原市岡崎)| |現存状態|空堀、曲輪、土塁跡| |城郭構造|平山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)