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猪苗代城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 猪苗代城は亀ヶ城とも呼ばれる平山城で、江戸期には鶴ヶ城([[会津若松城]])の支城としても機能した。 磐梯山の山裾から細長く突き出した丘陵の先端部に築かれた南北250m、東西200mと比較的まとまった規模を持っている。 丘の最上部の主郭とその南側に二の郭を持ち、その周囲を帯郭で固めている。 東方の大手口には枡形虎口が見られ、穴太積みの石垣もあることから、これらは蒲生氏時代に築かれたものとされ、中世城郭から近世城郭への変遷がうかがえる。 猪苗代城は、奥州合戦によって会津を与えられた相模国の佐原義連の孫・経連が、鎌倉時代初期に築いたとされているが定かではない。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 経連の子孫は代々猪苗代氏を名乗り、地頭としてこの一帯を治めていた。 会津最大の勢力となった蘆名家との関係は極めて近い同族(祖・経連は蘆名氏の祖・光盛と兄弟)であり重臣として取り立てられる一方で、独立性の高さから度々反発を繰り返していたとされている。 戦国時代後期になると嫡流の子が絶え、蘆名盛詮の子(異説あり)盛清が養子に入るなど蘆名一門に近い立ち位置になった。 盛清の子盛国も蘆名家臣として仕え、50歳で嫡男盛胤に猪苗代城と家督を譲りいったんは隠居した。 しかし、蘆名家中での当主の早逝から来る混乱と佐竹氏から養子をとったことで生じた家臣団の対立という背景と、自身も庶子である後妻の子(後の宗国)を寵愛したことで嫡男盛胤と対立したとされるなど、立場が苦しくなっていったようである。 それらの結果、1588年(天正16年)5月に突如猪苗代城を占拠(この行動は後妻がそそのかしたともされる)することで表舞台に戻ってくることとなった。 翌年になると、伊達氏と蘆名氏の最前線であった郡山盆地西部において状況が激変(片平城主片平親綱が兄大内定綱の後を追う形で伊達氏に内通し、これに応じた伊達氏の攻撃により郡山盆地西部の蘆名拠点であった安子島城・高玉城が相次いで落城)したため、猪苗代城は突如伊達氏と蘆名氏の最前線に立たされることになった。 選択を迫られた盛国は、盛胤との対立もあってか宗国を人質に出すことで伊達政宗に恭順する道を選び、伊達氏の軍勢を猪苗代城に引き入れた。 これは、伊達氏にとっては政宗率いる主力軍が[[黒川城]]を直接攻撃する道を得た一方で、猪苗代湖南方から郡山盆地に向かっていた蘆名軍にとってはまさに青天の霹靂となった。 [[黒川城]]に引き返した蘆名軍は伊達軍の進軍を止めるために摺上原で合戦に及んだものの、これに破れたことで一気に滅亡へと転がり落ちることとなった。 豊臣秀吉の奥州仕置によって、伊達氏が会津を離れると、盛国も猪苗代を離れ、約400年にも及ぶ猪苗代氏の支配が終焉した。 その後、猪苗代城は会津領の重要拠点として江戸幕府に存続が認められ、会津領主の有力家臣が城代として差し置かれていた。 1868年の戊辰戦争の際、母成峠の戦いで勝利した西軍が会津領へ侵入すると、当時の城代・高橋権大夫は城を焼き払って若松へ撤退した。 戊辰戦争後、猪苗代城跡地は荒廃したままだったが、1905年に町内の有志が桜を植樹し、その後公園として整備され、2001年に「猪苗代城跡 附鶴峰城跡」として県の史跡に指定された。 #br なお、伊達氏に恭順し猪苗代城を開城した盛国は大功ありとして、準一家という譜代の臣でない出自としては最高と言える待遇で伊達家中に迎えられ、宗国以降の子孫は仙台藩士として代を重ねていった。 一方、盛胤は摺上原の戦いにおいて蘆名方で奮戦し、蘆名義広が会津から常陸に逃れた際にもこれに付き従うなど忠義を尽くし、晩年には猪苗代に戻り亡くなった。 #br また、医学者として知られる野口英世は父方が猪苗代氏の子孫であるとされている。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|福島県耶麻郡猪苗代町| |現存状態|本丸、二の郭、帯郭、石垣(穴太積)、土塁、空堀| |城郭構造|平山城| //題名を付けて説明する場合は、以下の方法で必ず折り畳んでください。 //初めから折り畳みにすると、Edit番号が割り振られませんが、必要な場合は折り畳まない状態でプレビュー表示してEdit番号を拾ってください。 //#br //#style(class=submenuheader){{{ //&color(White,Maroon){(題名を入力してください)(クリックで表示)}; //}}} //#style(class=submenu){{{ //**(題名を入力してください) [#(Edit番号を拾う場合はこちらに入力し、拾わない場合は削除してください)] //(本文を入力してください) //}}}
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 猪苗代城は亀ヶ城とも呼ばれる平山城で、江戸期には鶴ヶ城([[会津若松城]])の支城としても機能した。 磐梯山の山裾から細長く突き出した丘陵の先端部に築かれた南北250m、東西200mと比較的まとまった規模を持っている。 丘の最上部の主郭とその南側に二の郭を持ち、その周囲を帯郭で固めている。 東方の大手口には枡形虎口が見られ、穴太積みの石垣もあることから、これらは蒲生氏時代に築かれたものとされ、中世城郭から近世城郭への変遷がうかがえる。 猪苗代城は、奥州合戦によって会津を与えられた相模国の佐原義連の孫・経連が、鎌倉時代初期に築いたとされているが定かではない。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 経連の子孫は代々猪苗代氏を名乗り、地頭としてこの一帯を治めていた。 会津最大の勢力となった蘆名家との関係は極めて近い同族(祖・経連は蘆名氏の祖・光盛と兄弟)であり重臣として取り立てられる一方で、独立性の高さから度々反発を繰り返していたとされている。 戦国時代後期になると嫡流の子が絶え、蘆名盛詮の子(異説あり)盛清が養子に入るなど蘆名一門に近い立ち位置になった。 盛清の子盛国も蘆名家臣として仕え、50歳で嫡男盛胤に猪苗代城と家督を譲りいったんは隠居した。 しかし、蘆名家中での当主の早逝から来る混乱と佐竹氏から養子をとったことで生じた家臣団の対立という背景と、自身も庶子である後妻の子(後の宗国)を寵愛したことで嫡男盛胤と対立したとされるなど、立場が苦しくなっていったようである。 それらの結果、1588年(天正16年)5月に突如猪苗代城を占拠(この行動は後妻がそそのかしたともされる)することで表舞台に戻ってくることとなった。 翌年になると、伊達氏と蘆名氏の最前線であった郡山盆地西部において状況が激変(片平城主片平親綱が兄大内定綱の後を追う形で伊達氏に内通し、これに応じた伊達氏の攻撃により郡山盆地西部の蘆名拠点であった安子島城・高玉城が相次いで落城)したため、猪苗代城は突如伊達氏と蘆名氏の最前線に立たされることになった。 選択を迫られた盛国は、盛胤との対立もあってか宗国を人質に出すことで伊達政宗に恭順する道を選び、伊達氏の軍勢を猪苗代城に引き入れた。 これは、伊達氏にとっては政宗率いる主力軍が[[黒川城]]を直接攻撃する道を得た一方で、猪苗代湖南方から郡山盆地に向かっていた蘆名軍にとってはまさに青天の霹靂となった。 [[黒川城]]に引き返した蘆名軍は伊達軍の進軍を止めるために摺上原で合戦に及んだものの、これに破れたことで一気に滅亡へと転がり落ちることとなった。 豊臣秀吉の奥州仕置によって、伊達氏が会津を離れると、盛国も猪苗代を離れ、約400年にも及ぶ猪苗代氏の支配が終焉した。 その後、猪苗代城は会津領の重要拠点として江戸幕府に存続が認められ、会津領主の有力家臣が城代として差し置かれていた。 1868年の戊辰戦争の際、母成峠の戦いで勝利した西軍が会津領へ侵入すると、当時の城代・高橋権大夫は城を焼き払って若松へ撤退した。 戊辰戦争後、猪苗代城跡地は荒廃したままだったが、1905年に町内の有志が桜を植樹し、その後公園として整備され、2001年に「猪苗代城跡 附鶴峰城跡」として県の史跡に指定された。 #br なお、伊達氏に恭順し猪苗代城を開城した盛国は大功ありとして、準一家という譜代の臣でない出自としては最高と言える待遇で伊達家中に迎えられ、宗国以降の子孫は仙台藩士として代を重ねていった。 一方、盛胤は摺上原の戦いにおいて蘆名方で奮戦し、蘆名義広が会津から常陸に逃れた際にもこれに付き従うなど忠義を尽くし、晩年には猪苗代に戻り亡くなった。 #br また、医学者として知られる野口英世は父方が猪苗代氏の子孫であるとされている。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|福島県耶麻郡猪苗代町| |現存状態|本丸、二の郭、帯郭、石垣(穴太積)、土塁、空堀| |城郭構造|平山城| //題名を付けて説明する場合は、以下の方法で必ず折り畳んでください。 //初めから折り畳みにすると、Edit番号が割り振られませんが、必要な場合は折り畳まない状態でプレビュー表示してEdit番号を拾ってください。 //#br //#style(class=submenuheader){{{ //&color(White,Maroon){(題名を入力してください)(クリックで表示)}; //}}} //#style(class=submenu){{{ //**(題名を入力してください) [#(Edit番号を拾う場合はこちらに入力し、拾わない場合は削除してください)] //(本文を入力してください) //}}} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) }}}