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鹿背山城 の変更点

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南都六宗の一つ法相宗の大本山であり南都七大寺の一つでもある興福寺が、大和と山城の境を守るために築いた城。
戦国時代には[[信貴山城]]や[[多聞山城]]の城主となった松永久秀によって改修され、久秀による大和支配の一翼を担った。
鹿背山は南には大和北部に通じる奈良坂があり、北には奈良街道が通って木津川を渡り京へと通じ、さらに木津川を挟んだ対岸には伊勢街道が横断して伊賀・近江に通じ、そして木津川西岸を北上する歌姫街道が京・河内へと通じる交通の要衝に位置した。
鹿背山城はこの鹿背山の全山を城郭化した山城であり、山城国内でも最大規模を誇る城郭だった。

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15世紀の山城南部を知る上で重要な史料である『大乗院寺社雑事記』には、文明元年(1469年)の記録に興福寺六方の末寺である菩提院方分として「鹿山」の名がある。同じく文明11年(1479年)の記録には一乗院の御祈願所として「鹿山」の名が見え、同年には成身院順宣が「賀世山」に主張した記録もあり、15世紀の鹿背山には興福寺と関係が深い施設が存在していたことがうかがえる。
さらに同年10月25日には狛氏や成身院、佐川父子が大和中川寺に出陣したことに対し、「木津執行ハ加世山ニ引退了」とあるように、木津氏と鹿背山との関係が記され、築いかれていた施設は城郭であった可能性が高いとされる。
また万治4年(1661年)に作成された『山城国四郡石高古城図』に「鹿背山城・興福寺出城」と記されていることから、江戸時代前期も鹿背山城と興福寺との関係が認識されていた。
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戦国時代の鹿背山城については『多聞院日記』に見られ、永禄11年(1569年)9月13日に木津に遣わされた多聞院の等春らが三好三人衆の一人である三好政康の軍勢に襲われたため、「カセ山」へ逃げ込んだことが記されている。当時の鹿背山には三好三人衆と対立する松永久秀方の城が構えられており、多聞院は久秀と結んでいたため等春らはそこに逃げ込んだものと考えられる。
久秀は永禄2年(1559年)に大和へ侵攻、信貴山城を改修して居城とし、翌年には多聞山城を築いて本城とし、大和支配を固めていた。永禄11年(1569年)以降には[[龍王山城]]も支城として利用していた。
『多聞院日記』に記された鹿背山城はこのような状況で久秀によって改修された。鹿背山が多聞山城を本拠とする久秀にとっては、三好三人衆に対して木津川の渡河点を押さえる要衝であり、山城・河内方面に対する前線基地でもあった。
現存する鹿背山城の大規模な遺構はこの時に築かれたものであり、特に主郭から西に延びる尾根上の曲輪群の先端に放射状に配置された畝状竪堀群は規模が大きく、戦国時代後半の完成された形態を示している。
このように久秀は鹿背山城を改修することで大和支配を強固なものとし、多聞山城を本拠に西の防御を信貴山城、東の防御を龍王山城、そして北の防御を鹿背山城が担うという体制が整えられた。
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元亀2年(1571年)8月の辰市城の合戦で久秀が筒井順慶に敗れると、大和では松永方と筒井方との争いが激化し、松永方は次第に劣勢となっていった。
『多聞院日記』には天正2年(1574年)4月25日の記録に「カツ山ノ城落了」と記されている。このカツ山がどこの山を指すかは不明だが、久秀の勢力が衰退していった時期を考えると鹿背山であった可能性が高いとされ、この時に鹿背山城は落城したとされる。

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|所在地|京都府木津川市鹿背山|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|山城|

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