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鹿背山城
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現実の城情報南都六宗の一つ法相宗の大本山であり南都七大寺の一つでもある興福寺が、大和と山城の境を守るために築いた城。 続きをクリックで表示 15世紀の山城南部を知る上で重要な史料である『大乗院寺社雑事記』には、文明元年(1469年)の記録に興福寺六方の末寺である菩提院方分として「鹿山」の名がある。同じく文明11年(1479年)の記録には一乗院の御祈願所として「鹿山」の名が見え、同年には成身院順宣が「賀世山」に主張した記録もあり、15世紀の鹿背山には興福寺と関係が深い施設が存在していたことがうかがえる。 戦国時代の鹿背山城については『多聞院日記』に見られ、永禄11年(1569年)9月13日に木津に遣わされた多聞院の等春らが三好三人衆の一人である三好政康の軍勢に襲われたため、「カセ山」へ逃げ込んだことが記されている。当時の鹿背山には三好三人衆と対立する松永久秀方の城が構えられており、多聞院は久秀と結んでいたため等春らはそこに逃げ込んだものと考えられる。 元亀2年(1571年)8月の辰市城の合戦で久秀が筒井順慶に敗れると、大和では松永方と筒井方との争いが激化し、松永方は次第に劣勢となっていった。
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