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鳥越城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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加賀一向一揆に加わった白山麓の一向宗門徒・山内衆が拠点とした城で、織田信長に最後まで抵抗し加賀一向一揆終焉の地となった城。
紀伊の[[雑賀衆>雑賀城]]を率いた鈴木氏の一族とされ、山内衆の指導者だった鈴木出羽守によって天正元年(1573年)頃に築かれた。
手取川と大日川が合流する地点、標高312メートル丘陵上の立地し、大日川の対岸には同じく鈴木出羽守が築いた二曲城があった。
鳥越城は山頂部の本丸を中心に前後に曲輪が連なり、これらを鋭い土塁・竪堀・堀切が囲んでおり、特に本丸と後二の丸との間には急傾斜の土塁と、堀底が人ひとりが辛うじて通れるほど鋭い堀切に守られた。
本丸門は発掘調査をもとに復元されており、三方を石垣で固めた堅固な造りで、枡形虎口の構造となっている。

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山内衆は鳥越城を拠点に織田方の柴田勝家に対抗し、天正6年(1578年)に[[石山本願寺>石山御坊]]の顕如が鈴木出羽守宛てに、山内衆を督励する書状を送っている。
勝家は山内衆の激しい抵抗に手を焼き、休戦の名門で鈴木出羽守を呼び出し松任城で謀殺したという。
勝家は山内衆の激しい抵抗に手を焼き、休戦の名目で鈴木出羽守を呼び出し松任城で謀殺したという。
天正8年(1580年)、勝家は鳥越城を攻略して吉原次郎兵衛を置いたが、その後も山内衆の抵抗は続き、翌年には山内衆によって奪還された。
これは佐久間盛政によって鎮圧されたものの、再び山内衆は蜂起し抵抗を続けた。
そして天正10年(1582年)3月1日、盛政は一揆勢を徹底的に鎮圧し、『石山本願寺日記』によると三百余人が礎刑に処されたといい、現在でも白山麓の各地には「かくれ谷」「子ころし谷」「泣き平」などの地名が残る。
これによって一揆勢は壊滅し、百年近くにわたって加賀を支配した加賀一向一揆は終焉を迎えた。
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現在、鳥越城を拠点に織田軍を激しい戦いを繰り広げた人々の遺徳を偲ぶ「鳥越一向一揆まつり」が毎年開催されている。
昭和60年(1985年)には二曲城とともに「鳥越城跡 附 二曲城跡」として国の史跡に指定され、平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。

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|所在地|石川県白山市三坂町|
|現存状態|土塁、堀切など|
|城郭構造|連郭式山城|

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