Top > 高瀬城

高瀬城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

//編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです)

高瀬城は斐伊川が宍道湖へ注ぎ込む一帯の南に広がる山塊のうち、標高314メートルの高瀬山に築かれた尼子十旗の一つとして知られる山城である。
高瀬城は斐伊川が宍道湖へ注ぎ込む一帯の南に広がる山塊のうち、標高314メートルの高瀬山に築かれた[[尼子十旗>日本100名城#x0ba649d]]の一つとして知られる山城である。
山頂付近の大高瀬とそこから一段下がった小高瀬、さらに麓への尾根筋にある鉄砲立と山域を生かした大規模な連郭式山城になっている。
高瀬城は山がちな出雲国において数少ない平野部である出雲平野を見下ろす位置にあることから、出雲国西部ににらみをきかせる役目があったものと考えられる。
古くは南北朝の争いが本格化する暦応年間に建部伊賀が築城したという説もあるが判然とせず、記録としては天文元年(1532年)に米原綱広が高瀬城主であったというのが最初である。
米原氏は近江源氏佐々木六角定頼の甥治綱が米原を領し、これを姓としたことに始まり、15世紀末~16世紀初頭にかけて近江国から出雲国に移り尼子氏に仕えたとされている。

#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
}}}
#style(class=submenu){{{
綱広の子である綱寛は尼子晴久の寵童であったとされ、天文9年(1540年)の[[吉田郡山城]]攻めなどの尼子氏の戦に参加する等有力家臣の一角を占めていた。
永禄5年(1562年)に入り、毛利氏が出雲国侵攻を本格化させると、綱寛は高瀬城を開城し毛利氏に降り、永禄8年(1665年)の[[月山富田城]]攻めでは小早川隆景の下で参戦している。
毛利氏が豊後国で大友氏と争っている最中の永禄12年(1569年)に山中幸盛らが尼子勝久を擁して隠岐から出雲国に進出すると、旧尼子領各地では旧臣が次々と蜂起し混乱状態に陥った。
毛利氏とともに豊後にいた綱寛はその対応のため出雲国に帰されるが、再興軍が勢いを増すのを見るや再興軍に加わった。これについては大友氏と密約があったとも言われている。
しかし翌元亀元年(1570年)には再興軍は月山富田城を落とせぬまま、九州から引き上げてきた毛利軍の前に布部山で惨敗し、綱寛は高瀬城で孤立することとなった。
結局、元亀2年(1571年)に高瀬城は落城、綱寛は再興軍の拠点であった真山城に逃れ、吉川元春はここを拠点として残る再興軍の拠点を潰していった。
そして、出雲国から尼子再興軍が一掃されると高瀬城は廃城となったという。
#br
綱寛は尼子再興軍の勢力が壊滅すると、逃亡した山中幸盛らから離れて出家、そのまま隠居したとされる。
その子綱俊は津和野藩士となった他、子孫の中には毛利氏に仕え姓を前原に改めたものがおり、萩の乱で知られる前原一誠の前原姓はこの流れのことであるという。
#br
現在では麓からの登山道が整備されており、距離こそあるが大高瀬へと比較的容易にアプローチすることができ、その周辺に郭をなした平地部とそれに付随する堀切や土塁などを確認することができる。
}}}

|BGCOLOR(#ddd):100|200|c
|所在地|島根県出雲市神庭|
|現存状態|郭、土塁、堀切|
|城郭構造|山城|
*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)


ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS