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高屋城 の変更点

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応永年間(1394年~1428年)に畠山基国が築いたともされるが、文献上では高屋城と記したものはなく、古市城や誉田城との混同が見られる。
発掘調査の結果によれば、文明11年(1479年)頃の築城であり、それに従えば築城主は応仁の乱における若江城の戦いに勝利するとともに河内を制圧し、乱のあとも戦い続けた畠山義就であると考えられる。
発掘調査の結果によれば、文明11年(1479年)頃の築城であり、それに従えば築城主は応仁の乱における[[若江城]]の戦いに勝利するとともに河内を制圧し、乱のあとも戦い続けた畠山義就であると考えられる。
河内の守護所は鎌倉時代末期には丹南、南北朝時代には古市にあったが、義就は河内に下向すると誉田に屋形を築き、以後の畠山家は誉田屋形と呼ばれた。
高屋城は明応2年(1493年)頃から詰城として用いられ、永正4年(1507年)頃から守護所として機能するようになった。
以後、畠山家の家督騒動の舞台として幾度も落城し、三好長慶が河内に進出すると情勢はさらに混乱を極めた。

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三好本家も久米田の戦いで長慶の弟・三好実休を[[根来衆>根来城]]の助力を得た畠山高政に討ち取られると弱体化したが、その後の教興寺の戦いでは高政に大勝した。
高政は室町幕府13代将軍・足利義輝が三好三人衆らに討たれると(永禄の変)、家督を弟の畠山秋高に譲り、足利義昭擁立に奔走した。
高屋城は三好三人衆の拠点となり、『多聞院日記』には永禄11年(1568年)3月の段階では三好備中守・遊佐安芸守・大嶋助兵衛・加地六兵衛が高屋衆として記されている。
義昭と織田信長の間に溝が深まると秋高は当初は義昭派だったものの信長に鞍替えし、三好三人衆方が詰めていた高屋城は落城し秋高が入城したが、天正元年(1573年)に義昭派である家臣の遊佐信教に攻められると自害した。
信教は同じく反信長派であった三好康長と結び、康長を高屋城に入城させて信長を相手に抵抗したが、天正3年(1575年)に降伏した。(高屋・新堀城の戦い)
信教はこの戦いで戦死したともいうが確かな記録はなく、[[石山御坊]](石山本願寺)とともになお抵抗を続けたと考えられている。
いずれにせよ、『信長公記』によると高屋城は信長の攻略をもって廃城になったとされる。
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高屋城は石川の西岸に広がる標高36~40メートルの河岸段丘上に位置し、独立丘陵全体を利用し高屋築山古墳(安閑天皇陵)という前方後円墳を取り込んで築かれた。
丘陵は全体が土塁と堀によって3つに分かれ、北から本丸・二の丸・三の丸と続き、東高野街道が本丸から二の丸・三の丸を通っており、陸上交通を押さえる役目もあった。
本丸は高屋築山古墳を利用し、その上部を平坦にして設けられたものであり、現在は立ち入り禁止となっている。
しかし、南側の二の丸は7万平方メートル、三の丸は10万平方メートルの規模を誇り、これだけでも大規模な城郭であると言える。
文献上では『経尋記』に大永2年(1522年)の大晦日に高屋城で守護屋形をはじめ180軒が焼失したが守護代館は焼けなかったとあり、このことから高屋城には200軒近い武家屋敷があったと考えられる。

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|所在地|大阪府羽曳野市古市|
|現存状態|空堀、土塁など|
|城郭構造|連郭式平山城|
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