陸奥小田山城 の変更点
南北朝時代の1354年頃に、芦名直盛が築城する。 標高は280~372m、陸奥飯盛山城(滝沢本陣や白虎隊自刃の地)と並び、会津盆地東側に位置する城跡。 [[黒川城]]の支城の一つで後詰の城として運用された。 1568年、芦名盛氏が向羽黒山城を築城した事により、その後は砦程度の扱いだったと考えられる。 戊辰戦争の際には小田山城周辺が政府軍に占拠される。 小田山中腹から、[[会津若松城]]の天守までの距離が約1400mである事に対して、 アームストロング砲の射程が1500mの為、絶好の位置から砲撃される事になる。 会津若松城の地形的な弱点は、戊辰戦争の260年前に上杉景勝、直江兼続の両名が予想し神指城築城の引き金になっている。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 大正、昭和(戦前)時代に入り会津若松市には、日本陸軍の歩兵第29連隊、歩兵第65連隊が配備された。 その為、当時は小田山城跡に建設された訓練場で実弾訓練等が行われていた。 その歩兵第29連隊は、ガダルカナル島作戦に投入さ大損害を受けた。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|福島県会津若松市門田町黒岩| |現存状態|土塁、堀、塀(復元)| |城郭構造|山城| |
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