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阿津賀志山防塁 の変更点

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奥州藤原氏と源頼朝との奥州合戦での最大の激戦地で、[[元寇防塁]]と並んで特筆される中世における線状の防御線。
福島盆地を一望する標高289メートルの阿津賀志山の中腹から平野部にかけて築かれ、平泉を拠点とする奥州藤原氏の南の境界に位置していたとされる。これを裏付けるように、平泉では12世紀後半にろくろを使用せず製作される手捏ねの土器が多用されるが、阿津賀志山防塁以南の地域では手捏ねの土器は確認されていない。
阿津賀志山防塁の姿は『吾妻鏡』では「口五丈」の幅があり、阿津賀志山の中腹から始まり、阿武隈川の水を堰き入れたと記されている。
昭和46年(1971年)に行われた発掘調査では二重の堀と三重の土塁が発見され、その幅は24~25メートル、堀底から土塁頂部までの高さは約4メートルにもなるものだった。昭和53年(1978年)の調査では、この遺構が『吾妻鏡』に記された「口五丈の堀」であることが明らかとなった。

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防塁は阿津賀志山の中腹から始まり、現在の国道4号線までほぼ直線的に築かれた。丘陵からの傾斜が緩やかになる平野部に入ると、防塁は滑川によって形成された河岸段丘を利用して構築されている。この部分の防塁線は自然地形に沿って蛇行し、旧阿武隈川河道へと至る。
滑川やその付近の低湿地がある、山麓付近の遠矢崎地区から南に向かった大橋地区にかけては、自然環境を利用した構造とするため一重堀となっており、その先の南端部に近い下二重堀地区では再び二重堀に戻っている。
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文治5年(1189年)7月19日、奥州藤原氏追討のための軍勢が三軍に分かれて鎌倉から進軍を開始し、頼朝は奥州街道を北上して7月29日には白河関を越え、8月7日には阿津賀志山の麓に位置する国見駅に本陣を置いた。
これに対し奥州藤原氏は、藤原泰衡が国分原鞭楯に本陣を置いて広瀬川や名取川などに大縄を引いて柵とし、さらに「阿津賀志山に城壁を築き要害を固め、国見宿と彼の山との中間に、俄に口五丈の堀を構えて、逢隈河の流れを堰入れて柵とした」と『吾妻鏡』に記され、さらにその北側には藤原国衡を総大将とし金剛別当秀綱とその子・下須房太郎秀方らが指揮する軍勢が配置された。
合戦前夜の8月7日夜には頼朝方の畠山重忠が率いる「疋夫八十人」が鋤鍬で堀の一部を埋め、翌8月8日から合戦が開始された。奥州藤原方は阿津賀志山防塁の北東に大木戸を置き、その前面に金剛別当秀綱が陣を置いたが支え切れず大木戸に退却した。
8月10日早朝に頼朝は阿津賀志山防塁への総攻撃を命じ、大木戸で激戦が展開された。その最中、前日から迂回行動を計っていた小山朝光や宇都宮朝綱らが背後に回り込んで急襲し、奥州藤原勢は総崩れとなった。
金剛別当秀綱と下須房太郎秀方は討死し、藤原国衡は出羽方面に逃れようとするが和田義盛や畠山重忠らによって討ち取られた。阿津賀志山防塁の陥落によって奥州合戦の大勢は決し、その後ほどなくして奥州藤原氏は平泉を落とされ滅亡した。

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|所在地|福島県国見町石母田・大木戸・森山・西大枝|
|現存状態|土塁、堀など|
|城郭構造|防塁|

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