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金鑚御嶽城 の変更点

*現実の城情報 [#information] 

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上野・武蔵の国境近くに位置する城として、後北条氏と武田氏との間で激しい攻防戦が展開された境目の城。
標高343.4メートルの御嶽山に築かれ、山頂部の本郭から伸びる5本の尾根上にそれぞれ曲輪が設けられ、多数の腰曲輪や堀切で守られた。
文明12年(1480年)に武蔵七党の一つである安保氏によって築かれたとされ、史料上に見られる最初の合戦は天文21年(1552年)1月~3月の金鑚御嶽城合戦で、関東管領上杉憲政に属する安保泰広が守る金鑚御嶽城を北条氏康が攻め落とした。
「仁王経科注見聞私 奥書」にはこの合戦の様子が記され、金鑚神社を含め全山が焼き討ちされ、城主の泰広とその子泰忠は降伏して助けられたが、残る城兵数千人は一人残らず討死あるいは水の手を断たれ乾死したという。
またこの時、おそらく憲政の名代として城内にいた憲政の嫡男・龍若丸が捕縛され、のちに氏康に殺害されたという。

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金鑚御嶽城の攻略によって氏康は武蔵全域を支配下に置き、また金鑚御嶽城が落城したという報を受けて東上野の赤石城主那波宗俊が氏康に従い、西上野の山内上杉方だった国衆も相次いで氏康に従属した。
さらに憲政に近い馬廻衆までもが憲政を見捨てて氏康に降伏し、憲政は居城の平井城を追われ最終的には越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)の下へと逃れた。
さらに憲政に近い馬廻衆までもが憲政を見捨てて氏康に降伏し、憲政は居城の[[平井城]]を追われ最終的には越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)の下へと逃れた。
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永禄12年(1569年)には甲相駿三国同盟の崩壊に伴って武田信玄が上野から北武蔵へ進出し、5月には浅利信種に命じて向城を築かせた。
この時金鑚御嶽城には平沢政実が城主として置かれており、氏康はさらに[[鉢形城]]主の北条氏邦の軍勢を入れ、金鑚御嶽城は城番衆と鉢形衆によって固められた。
武田勢は9月9日に金鑚御嶽城を攻撃し、10日には鉢形城にも総攻撃をかけ、鉢形城は氏邦が「手負死人無際限」と記すほどの被害が出た。
信玄は元亀元年(1570年)に伊豆への侵攻を終えると北武蔵への攻撃を本郭化させ、同年6月5日に再び金鑚御嶽城を攻撃してこれを落とすと、すぐに普請を行って数千人の兵を在城させた。
元亀2年(1571年)12月の甲相同盟で後北条氏と武田氏が和睦すると、翌年11月8日に金鑚御嶽城は後北条氏に返還された。
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金鑚御嶽城をめぐる激しい攻防戦は民衆の行動にも表れており、「仁王経科注見聞私 奥書」には兵による略奪を避けるため、民衆数千人が利根川の中州に小屋を建て、合戦のたびに避難したことを記している。
また北条氏邦が持田四郎左衛門に宛てた「北条氏邦掟書」では、人身売買を禁じてはいるがもし売買する時には必ず申告するよう伝えるなど、金鑚御嶽城では公然と人身売買が行われていたことを示している。

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|所在地|埼玉県児玉郡神川町渡瀬|
|現存状態|堀切、土塁など|
|城郭構造|山城|
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