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足柄城 の変更点

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駿河・相模の境に位置する足柄峠に築かれ、峠の頂上を中心に多数の砦を構え大城塞群を形成する要害で、[[箱根十城>日本100名城#l4a02ca1]]の一つに数えられる。
足柄峠は古来より碓氷峠とともに坂東への入口として知られ、かつては東海道の本道が通る交通の要衝であり、日本昔話『金太郎』で主人公である金太郎(坂田金時)が源頼光に出会い家臣となったとされる地でもある。
足柄城は古東海道を取り込むように築かれた「五連郭」と呼ばれる5つの曲輪からなり、頂上の本城から北西に伸びる尾根筋にニの曲輪から五の曲輪までが連なり、それぞれが堀切や横堀で遮断されていた。
大森氏が築いたとされるが築城時期は不明で、北条氏綱が今川義元と争った河東一乱の際に改修したとも考えられている。


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文献上では天文24年(1555年)に北条氏康が三田郷の百姓に足柄城普請の人足を出させたという記録があり、また永禄12年(1569年)2月にも武田信玄が駿河国駿東郡に侵攻したことを「御国之御大事」とし、小田原の石切職人を足柄城に派遣したという記録があり、後北条氏は足柄城を改修して武田氏に対抗する拠点とした。
対武田氏の最前線だった駿東郡の[[深沢城]]が武田氏に奪われると足柄城の重要性はますます高まり、深沢城から退去した[[玉縄城]]主の北条綱成が一時在城し、その後[[小机城]]の小机衆の一部が在城し度々改修が行われた。
対武田氏の最前線だった駿東郡の[[深沢城]]が武田氏に奪われると足柄城の重要性はますます高まり、深沢城から退去した[[玉縄城]]主の北条綱成が一時在城し、その後[[小机城]]を本拠地とする小机衆の一部が在城し度々改修が行われた。
武田氏滅亡後は対豊臣秀吉戦を想定して改修され、「足柄当番之事」という城掟を定めて統制を強化した。
城掟は戦国時代の城の実態を明らかにする貴重な史料で、足柄城は境目の城であるため草木の扱いにも他領と揉め事が起こらないよう注意を払う条文があり、またトイレに関する条文は非常に珍しいものとなっている。
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後北条氏と豊臣秀吉が対立するようになると[[小田原城]]の西側にある足柄城は天正15年(1587年)頃から小机城主の北条氏光を城番として改修整備された。

秀吉が後北条氏家臣で[[沼田城]]代の猪俣邦憲による[[名胡桃城]]占拠を惣無事令違反とし対立が深刻化すると、天正18年(1590年)に小田原征伐が行われ、足柄城には氏光に加えて城将として[[唐沢山城]]主の北条氏忠が入り、[[山中城]]と共に小田原城を守る役割を期待されたが、山中城が落城すると氏忠は小田原城に退却し、足柄城は井伊直政率いる豊臣方の大軍によって落城した。
秀吉が後北条氏家臣で[[沼田城]]代の猪俣邦憲による[[名胡桃城]]占拠を惣無事令違反とし対立が深刻化すると、天正18年(1590年)に小田原征伐を行った。
足柄城には氏光に加えて城将として[[唐沢山城]]主の北条氏忠が入り、[[山中城]]と共に小田原城を守る役割を期待されたが、山中城が落城すると氏光・氏忠は小田原城に退却し、足柄城は井伊直政率いる豊臣方の大軍によって落城した。

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|所在地|神奈川県南足柄市矢倉沢足柄峠・静岡県駿東郡小山町竹之下|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|山城|
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