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越中宮崎城 の変更点

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上杉氏による越中支配における最重要拠点である[[魚津城]]、軍事拠点である[[松倉城]]とともに、越中と越後を中継する役割を担った上杉氏の重要拠点。
越中と越後の国境付近、北アルプスの北端に位置し、城の北麓には北国街道が通る交通の要衝で、日本海を航行する船舶の監視も可能であり、上杉氏が陸運・水運を掌握する上で重視された。
江戸時代に加賀・越中・能登三国の地理歴史を著した『三州志』の「故墟考」では、平安時代末期に源義仲に従った宮崎太郎長康の居城としているが詳細は不明であり、16世紀後半の上杉謙信による越中侵攻の際に中継地点として重視された。謙信は越中宮崎城の城将である庄田隼人佑と河隅忠清に対し、実城・二の郭・三の郭に塀を設けるよう指示した文書を出している。
上杉景勝の代になっても越中宮崎城は引き続き重要視され、上杉氏の直轄領とされた。この上杉氏時代、特に景勝の時代に越中宮崎城は大きく改修され、上杉氏の城郭に特徴的な畝状空堀群も設けられ、魚津城・松倉城とともに三城で越中を支配する体制が整えられた。

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やがて佐々成政による越中平定が進むと越中宮崎城は上杉氏最後の拠点となり、岩船藤左衛門尉が城将として籠城したが、天正11年(1583年)2月に落城し、成政は越中を平定した。
成政は越中宮崎城を[[富山城]]の支城として城兵を入れ越後との国境を守る拠点としたが、翌天正12年(1584年)になって成政が加賀の前田利家と対立すると、景勝はこの機に乗じて越中宮崎城の奪還を図った。
同年9月に成政が利家方の[[能登末森城]]攻めに出陣すると、景勝は越中宮崎城を攻撃し10月には攻略に成功した。翌天正13年(1585年)に成政が羽柴秀吉に降伏した後も越中宮崎城は上杉氏の支配下に置かれ、「故墟考」によるとその後文禄4年(1595年)に利家が新川郡を領した際、越中宮崎城には家臣の高畠定吉が城将として入ったといい、その後境関所が設けられると廃城になったとされる。

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|所在地|富山県下新川郡朝日町|
|現存状態|土塁、堀、石垣など|
|城郭構造|山城|

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