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紀伊田辺城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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[[和歌山城]]と[[新宮城]]の中間に位置する、紀州藩徳川氏の付家老安藤氏代々の居城。別名は「錦水城」で、二の丸の外にあった「殿井戸」に清い水が豊富にあったことが由来とされる。
田辺の地は紀伊のほぼ中央部に位置し、古くから熊野参詣の宿所として重視され、南北朝時代から戦国時代にかけて湯川氏が支配していた。
天正13年(1585年)の羽柴秀吉による紀州征伐の際には杉若無心が湯川氏の泊城を攻めて入城し、その後会津川河口西岸の八王子砦があった上野山に移り、上野山城として大改修を行った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に紀伊に入った浅野幸長は上野山城に一族の浅野氏重を入れたが、すぐに城はより会津川の河口に近い洲崎に移され、慶長9年(1604年)に洲崎城として完成した。
しかし翌慶長10年(1605年)、洲崎城は台風による大波によって崩壊し、その被害の大きさから洲崎城は再建されず、対岸の湊村に新城の築城を突貫工事で開始し、その翌年に湊村の新城に移り城下町を開いた。これが田辺城の始まりとなる。

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この湊城は本丸のみで周囲には柴垣や竹藪を巡らせた程度で、堀はわずかに掘られていただけで、自然地形を利用したものに限られていたとされる。
浅野氏による紀伊支配は元和5年(1619年)まで続くが、これ以後の湊城の記録は見つかっておらず、浅野氏に代わって紀伊に入った徳川頼宣の付家老安藤直次が田辺の領主になった頃には城が存在していなかったと『田辺町大帳』には記されており、一国一城令で破壊あるいは放置されていたと考えられる。
直次は浅野氏の城と城下町の縄張を引き継いで内堀や外堀などを増築し、田辺城として完成させた。もっとも、直次自身は和歌山に常住して頼宣を補佐しており、田辺城には従弟の安藤小兵衛を留守居役として入れていたため、田辺には出向いていない。
田辺城は直次以後も18代直裕まで続いて明治に至るが、4代直清が11回田辺城を訪れているものの、他は5代直名が2回、6代陳武と9代次由が1回、最後の直裕が明治2年(1869年)の訪問も含めて2回とほぼ訪れていない。田辺の政務は代々「小兵衛」を名乗った留守居役に任され、当時は留守居役の安藤氏は「殿」、領主の安藤氏は「大殿」と呼ばれていたようだ。
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この安藤氏のもとで田辺城の改築は順次行われ、万治6年(1663年)に城門が瓦葺きとなり、享保5年(1720年)に台所の玄関が完成、天保2年(1831年)には柴垣や竹垣が狭間付きの城壁に改修されたという記録が残っている。
完成した田辺城は会津川河口に位置する海城の機能を備えた平城で、本丸は東西約130メートル、南北約120メートル、幅約25メートルの内堀に囲まれ、本丸御殿・番所・土蔵・井戸があった。
本丸の正面には長さ14.4メートル、幅4.5メートルの櫓門型の大手門があり、会津川に面する水門も設けられ、海に面する二の丸には奉行や代官の詰所が置かれた。
内堀の外側には三の丸には武家屋敷が並び、これらを全長約790メートル、幅36メートルの外堀が囲んでいた。
また宝暦5年(1755年)には田辺城の白壁に日光が反射して魚が寄り付かないので黒鼠色に塗り替えてほしいという陳情書が出されており、田辺城が白壁であったことがうかがえる。
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幕末になって外国船の脅威が迫り海防論が盛んになると、海に面する城である田辺城でも海防策が講じられた。その結果田辺城では海に面する位置に台場が築かれたが、城内に台場が築かれる例は珍しく、他には[[松前城]]などで見られる。
この城内台場とは別に、田辺城の東方により本格的な台場である扇ヶ浜台場が築かれ、さらに文久3年(1863年)には田辺城の移転工事も始められたが、地ならしをした程度で翌年には中止され、築城当時の位置のまま明治4年(1871年)に廃城となった。

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|所在地|和歌山県田辺市上屋敷町|
|現存状態|石垣、水門|
|城郭構造|平城|
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