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種里城 の変更点

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津軽為信の代に南部氏から独立して津軽地方に大勢力を築き、津軽藩(弘前藩)主として江戸時代を通じて津軽地方を支配した津軽氏発祥の地。
津軽氏は為信以前は大浦氏を称し、『前代歴譜』によると延徳3年(1491年)に南部氏の庶流・南部久慈氏の一族である南部光信が、九戸郡久慈から津軽西浜の「大浦・種里」に移り種里城に入城したことに始まるという。
当時の津軽西浜一帯は、十三湊を支配していた下国安東氏が嘉吉2年(1442年)に南部氏によって蝦夷地に追われて以降、津軽奪回を図る下国安東氏と南部氏との間で激しい戦いが続いており、光信は南部氏による津軽支配を確立させるため種里の地に入ったのである。
文亀2年(1502年)、光信は津軽平野内陸部の岩木山麓に大浦城を築いて嫡男の盛信を置き、自身は種里城に留まり大永6年(1526年)に死去した。
光信の死後に大浦氏の居城は大浦城に移り、初代光信から数えて五代目にあたる為信の代には[[堀越城]]に移って津軽地方を支配し、種里城はその支城として江戸時代初頭まで用いられた。

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種里城は青森県西部を流れ日本海に注ぐ赤石川河口から約8キロメートル遡った中流域に位置し、赤石川とその沖積地を望む左岸丘陵上に立地する。
その周辺は岩木山や白神山地などの山々が海岸部まで迫る海岸段丘を形成し、平野部が非常に少ないのが地形的な特徴となっている。
日本海に面する西浜街道から種里城へ至るルートとしては、赤石川の船運とともに赤石川左岸の陸路があり、種里城から西へは背後の丘陵を越えて深浦・関方面に通じ、東へは後に拠点を移す大浦城がある津軽平野内陸部へと通じるという交通の要衝に位置していた。
種里城の構造としては南北約200メートル、東西約100メートルの主郭を中心に、堀を挟んだ周囲三方の台地平坦面で構成されている。
主郭は赤石川に臨む東側が急崖となっており、他の三方は幅約30メートル、高さ約20メートルという深い堀が巡らされ防御性は高かった。
その一方で堀を挟んだ三方の台地平坦面は曲輪やそれを囲む堀が明確ではないものの、寺ノ沢、下門前、上門前、セツバヤシキなどの地名が残っていることから、中世寺院や侍屋敷があったと考えられている。
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種里城は津軽氏の始祖である大浦光信の居城であることから津軽氏発祥の地として位置づけられ、また長年に渡る発掘調査の成果が認められ平成14年(2002年)に[[弘前城]]、堀越城に続いて国の史跡に追加指定され、「津軽氏城跡 種里城跡 堀越城跡 弘前城跡」となった。
始祖光信は種里城本丸跡の西南にある光信公御廟所で祀られ、また主郭には歴史資料館である光信公の舘が建てられ、その前庭には津軽氏の家紋にちなんだ800本の牡丹が植えられており、毎年5月中旬~6月上旬に牡丹祭りが行われている。

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|所在地|青森県鰺ヶ沢町種里町|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|山城|

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