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神西城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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神西城(じんざいじょう)は神西湖南岸に向かってせりだした丘陵地帯の中の標高101メートルの高倉山に築かれた山城で、[[尼子十旗>日本100名城#x0ba649d]]の一つである。一般に使われる神西城は俗称で正式には龍王山竹生城であるという。
頂上部を主郭とし、そこから北に向かって郭が連続して配置されており、そこから北西の麓方向と北東の尾根にそってさらに郭が配置されている。
承久の乱の戦後処理において武蔵七党小野氏の小野高通が神門郡神西の地頭に任ぜられ、当地に下向し拠点として築いたのが最初とされている。
小野氏はその後神西氏を名乗り、出雲西部の国人の一翼を担うようになっていった。
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室町期には出雲守護京極氏に従っていた神西氏であるが、尼子氏がそれにとってかわると尼子氏に従うようになっていった。
神西城は石見との国境を守る城となり、神西氏も尼子家中で一定の地位を得ることとなるが、尼子氏が衰退すると神西元通は永禄6年(1563年)毛利氏に降ったという。
しかし[[月山富田城]]の尼子方の中にも神西元通に比定される人物の名が見られ、この頃の神西元通に関する記録には若干の混乱が見られる。
いずれにせよ、神西城は毛利氏の出雲侵攻の中で落城もしくは開城となり、その後は特に史料では確認できないため早々に廃城になったのではないかと考えられる。
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神西元通は毛利氏に降り伯耆末吉城主となったが、永禄12年(1569年)の尼子再興軍に参加、これが失敗に終わると山中幸盛らとともに京に上り、織田氏の傘下に入った。
そして播磨上月城の包囲戦において尼子勝久らとともに自害している。
そして[[播磨上月城>上月城]]の包囲戦において尼子勝久らとともに自害している。
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城跡は主郭部分は公園となっているが遺構についてはあまり明確ではなく、それ以外は藪に埋もれてしまっているところが多い。

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|所在地|島根県出雲市東神西町|
|現存状態|郭|
|城郭構造|山城|
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