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磐城平城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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磐城平城(いわきたいらじょう)は福島県いわき市(陸奥国磐前郡)にあった平山城。龍が寝ている姿に似ていることから「龍ヶ城」、丹後沢にアヤメが多く咲いていたことから「あやめ城」の呼び名も存在する。
この一帯は元々岩城氏が治めており、飯野平と呼ばれる台地上に築かれた大館城を居城としていたが、上杉景勝討伐に参加しなかった岩城貞隆(佐竹義重の三男)は慶長7年(1602年)にその所領を没収された。
この一帯は元々岩城氏が治めており、飯野平と呼ばれる台地上に築かれた[[大館城>大館城(飯野平城)]]を居城としていたが、上杉景勝討伐に参加しなかった岩城貞隆(佐竹義重の三男)は慶長7年(1602年)にその所領を没収された。
かわって徳川譜代である鳥居忠政が当地に入ると、飯野平と呼ばれていた地名を岩城のいわの字を改め磐城とし、磐城平藩となった。
翌年忠政はこれまでの大館城を破却して寺院地とし、飯野平の東の見物岡と呼ばれる台地先端部に、当地にあった飯野八幡宮を移設させた上で城郭の建設を開始。(これは幕府の命によるものとされ、伊達氏への備えを意識したものと考えられている。)
築城は領内の労力を駆り出した上で12年の長きに及んだものの、最終的に御三階櫓を本丸とする梯郭式平山城として完成した。

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磐城平城は台地の三方向を河川が流れ周囲は断崖で囲まれた天然の要害であり、磐城平藩の藩庁であるとともに、その姿を「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われたほどの城であった。
正保年間に描かれた「正保平城絵図」では本丸の北東に二の丸と三の丸が並列し、真北には杉平郭が描かれているが、元禄年間に描かれた「磐城平城古地図」には「正保平城絵図」での二の丸と三の丸がまとめて二の丸、杉平郭は三の丸と記されている。磐城平城が築城された当時、杉平郭は侍屋敷が建てられていたが、磐城平藩内藤氏第3代の内藤義概の時代に、杉平郭の侍屋敷を移転させ三の丸として主郭に取り込んだと考えられている。
また「正保平城絵図」では本丸周囲の内堀と丹後沢はつながっており木橋が架けられていたが、17世紀後半の絵図では土橋状になり、18世紀には内堀と丹後沢の間は完全に埋め立てられ、現在の丹後沢の姿となった。
戊辰戦争において奥羽越列藩同盟に与した同藩は新政府軍の攻撃対象となり、磐城平藩のほか仙台藩・相馬中村藩・米沢藩などの約1000人が薩摩藩・大村藩などの約2000人交戦するも敗戦、家老上坂助太夫は城を焼き払い後退したため、城郭施設のほとんどが失われた。
明治以降には城域のほとんどが民間に払い下げられるなど遺構の保存もほとんど行われなかったため、かつての威容は完全に過去のものとなってしまっている。
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現在確認できる遺構は、かつての城域の一部にあたる丹後沢公園などに石垣、土塁や水堀の一部が見られ、当時の城門が個人宅地などに移築、保存されている程度である。
行政や一部市民団体などで磐城平城の城跡整備を目指す動きはあるが、すでに城域の大半が住宅地となっていることなどから、その実現性は極めて乏しい状況となっている。
そんな中でも、平成28年(2016年)10月いわき市が本丸跡地に三階櫓をかたどった看板を設置するなど、市内外にアピールを続ける努力が行われている。
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|所在地|福島県いわき市旧城跡|
|現存状態|土塁、石垣、水堀|
|城郭構造|平山城|
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