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清水城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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清水城(しみずじょう)は140年にわたり島津氏宗家の居城であった山城である。
鹿児島の平野部の北端に位置する居館とその背後の山を利用した後詰めの城から構成されていたとされ、さらには背後に鹿児島湾を持つ山城[[東福寺城]]と連動しながら防衛が行えるようになっていたものと思われている。
後詰めの城は典型的な中世山城であり、山塊を堅堀で区切り曲輪を構築していたと思われるが、風化が進んでいることと、後世の開削が行われていた可能性が高いなどもありはっきりしないところも多い。
主説では築城は1387(嘉慶元)年に島津一族の奥州家初代島津氏久によるとされ、それ以前の居城であった[[東福寺城]]が統治には手狭であったことから新たに築いたとされている。
(ただし、当時の薩摩守護は氏久の甥である総州家島津伊久であり、元大隅守護でしかない氏久が上記のような行動を取れたかどうかについては疑念の余地もなくはないが)
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14世紀末になると奥州家は、その薩摩進出に懸念を抱いた総州家との抗争にいたり、当初は不利であったものの、島津一族である伊作氏、伊集院氏、樺山氏、新納氏の協力をとりつけ薩摩半島を掌握するなど戦況をひっくり返した。
最終的には優位な状態のまま、勘合貿易への影響を恐れた幕府の仲介で講和を結び、島津伊久が死ぬとさらに勢力を広げ、1409(応永16)年にとうとう薩摩守護を得、島津宗家の地位を獲得した。
結果、清水城は島津宗家の城となりそれから140年歴史を重ねたが、奥州家の地位が低下し、最終的に分家である相州家の島津貴久がその跡を継ぐと、清水城は手狭として、新たに[[内城]]を築き移った。
その際に清水城の居館部分は廃されたが、後詰めの城は有事の備えとして残され、島津家中でもその後も一城として認識されていたと考えられている。
これは、島津忠恒が[[鹿児島城]]の築城を始めようとした際に、父島津義弘がこれに反対し、既存の城である[[一宇治城]]か清水城を使うべきと言ったとされることからもうかがえる。
最終的に[[鹿児島城]]が築城されることになると、後詰めの城としても位置づけも薄れたことから、この頃に廃城になったとされる。

居館跡地には[[内城]]に移動して間もなく、真言宗寺院である大乗院が建立され、島津氏縁の寺院として薩摩藩でも有力な寺院であったが、廃仏毀釈によって廃寺となっている。
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居館跡地は現在は清水中学校の敷地となっており、大乗院時代も含めてめぼしい痕跡は見当たらない(薩摩藩内では明治以前、島津斉彬時代から藩主導で廃仏毀釈を行い、古い寺院がすべて消滅した、というほどの徹底した破壊が行われている)。
後詰めの城の跡地は藪の中になっているところが多く、堅堀やわずかながら土塁らしきものの跡などが残っているとされているものの、一帯は後世の開削の影響も受けているともされており、その実像ははっきりしないようである。
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|所在地|鹿児島県鹿児島市清水町|
|現存状態|堅堀跡や土塁跡と想定されるもの|
|城郭構造|山城|
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