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浦戸城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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[[第三回名城番付]]で言及された城。
高知県を代表する景勝地である桂浜の背後に位置する、四国の覇者・長宗我部氏最後の居城。
正確な築城年代は不明だが、南北朝時代の建武3年(1336年)に北朝方の津野氏らが浦戸で戦ったことが「堅田経貞軍忠状」に記されており、浦戸城が南朝方の拠点だったと考えられている。
戦国時代の天文年間(1532~1554年)には「土佐七雄」の一つである本山氏が勢力を伸ばし、その最盛期を築いた本山茂宗によって、浦戸城は茂宗の居城である[[朝倉城]]の支城として位置づけられた。
やがて土佐では「土佐七雄」の一つである長宗我部氏が本山氏と覇権を争うようになり、永禄3年(1560年)の長浜の戦いで長宗我部国親が茂宗を破り、浦戸城は長宗我部氏が支配することとなり長宗我部親貞(吉良親貞)が城監として入った。

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国親の子・元親の代で長宗我部氏が四国をほぼ統一するが、天正13年(1585年)に豊臣秀吉の四国攻めで降伏し、その所領は土佐一国に減らされ豊臣政権の傘下に入った。
元親は天正16年(1588年)に[[岡豊城]]から[[大高坂山城]]に居城を移すが、鏡川の治水に失敗したため再び岡豊城を居城とし、天正19年(1591年)に浦戸城に居城を移した。
浦戸城は浦戸湾の開口部の西側に位置し、桂浜の背後にある標高59メートルの浦戸山に築かれていた。
浦戸は北・東・南を海に囲まれた要害の地であり、また紀貫之の『土佐日記』にも登場する天然の良港、浦戸の港を擁することから、文禄・慶長の役に備えた長宗我部氏が軍事上・経済上の理由から海上交通の要衝であるこの地を居城として選んだと考えられる。
岡豊城からは重臣が強制的に移住させられ、浦戸城の山麓部に城下町が形成された。
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浦戸城の構造は江戸時代に土佐藩山内氏が編纂した『皆山集』の「吾川郡浦戸古城跡図」によると、浦戸山の山頂部に設けられた長方形の曲輪「一」を中心に、「二」「ニノ下」「三」「三ノ下」「四」「四ノ下」などからなる。
「一」と記されている主郭は、天正16年(1588年)11月に実施された検地の記録では「御詰ノ段」となっていることから、「一」は詰ノ段(本丸)、「二」はニノ段(二の丸)、「ニノ下」はニノ下段、「三」は三ノ段(三の丸)、「三ノ下」は三ノ下段、「四」は四ノ段(出丸)、「四ノ下」は四ノ下段を意味していると考えられる。
このうち詰ノ段には石垣が設けられ、北東隅には鯱瓦を葺いた五間四方三層の天守が築かれていることから、秀吉の影響下で織豊系城郭としての改修が行われていたとされる。
ニノ段と三ノ段の間には三本の連続した堀切が残り、これらは長宗我部親貞に時代から、天正16年(1588年)11月の検地の際に在城していた横山九郎兵衛の頃までの遺構と考えられている。
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長宗我部氏は元親の子・盛親が関ヶ原の戦いで西軍についたため改易され、土佐一国は[[掛川城]]主の山内一豊に与えられた。
しかし土佐では一領具足と呼ばれる長宗我部氏の旧臣が浦戸一揆を起こしたため、一豊は土佐に入れないでいた。
一豊は弟の山内康豊を派遣し、一揆勢は浦戸城に籠城して抵抗したものの鎮圧され、273人の長宗我部旧臣が斬首された。
慶長6年(1601年)1月になって一豊はようやく土佐に入ることができ、浦戸城を居城としたが、浦戸城では統治を行うのには手狭だったため、同年8月にはかつて長宗我部氏が居城にしようとした大高坂山城の地に新城を築くことを決定した。
こうして慶長8年(1603年)に河中山城(のちの[[高知城]])が完成して居城が移され、浦戸城は廃城となった。

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|所在地|高知県高知市浦戸|
|現存状態|堀切、移築石垣など|
|城郭構造|平山城|
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