浅水城 の変更点
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 甲斐源氏の流れをくむ南部氏の一族、三戸南部氏の庶流である南氏の居城。 三戸南部氏は室町・戦国時代に支配地強化のために一族を街道沿いの要衝を押さえる城館に配置し、それらが[[聖寿寺館]](本三戸城)を中心に北・南・東に位置したことから、それぞれ北氏・南氏・東氏と称されるようになった。 南氏は三戸南部氏22代政康の三男・長義を祖とし、浅水城は長義が永正14年(1517年)に築いたという。 天正19年(1591年)の九戸政実の乱の際には南盛義が政実方の[[櫛引城]]主櫛引清長と戦い、浅水城への攻撃は撃退したものの追撃中に清長に討ち取られた。 その後の浅水城の詳細は不明だが、文献史料から江戸時代初頭までは存続したと考えられ、最後の城主は南彦七郎直慶とされる。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 浅水城は浅水集落の北側にある裏山、浅水川左岸の舌状台地上に築かれ、台地の北側と東側は断崖となり西側は幅2~10メートルの狭い尾根が続いている。 台地の先端部には中心的な曲輪とされる平場があり、これに接続するように北側と東側に帯曲輪が置かれた。しかし平場の面積は極めて狭く、南氏の居館ではなく臨時の城としての性格が強いものと考えられる。 浅水城とは浅水川と奥州街道を南北に挟む形で浅水館があり、南から北に延びる舌状台地を利用して北郭、南郭、工藤屋敷の3つの曲輪で構成されている。 工藤屋敷は北郭・南郭とは沢で隔てられた別の舌状台地に立地し、南氏が浅水に入る前に工藤氏が居館としていたという。 浅水館は南氏と同じく三戸南部氏の重臣だった北氏の剣吉城、東氏の上名久井城とは規模や選地、縄張が極めて類似しており、この浅水館が南氏の居館だったと考えられている。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|青森県三戸郡五戸町浅水| |現存状態|堀、土塁など| |城郭構造|平山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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