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浄法寺城 の変更点

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坂東八平氏の一つに数えられる名門、畠山氏の末裔である浄法寺氏の居城。
浄法寺氏は『旧南秘事記』によると、畠山重忠の弟・重宗が二戸郡を賜ったものの嫡男が死去したため重忠の末子に跡を継がせ、浄法寺氏を称したという。また『奥南落穂集』には重忠の三男・重慶が出家し奥州に下って浄法寺に居住し、後に兵を挙げたが討たれ、その子孫が浄法寺氏重基と記される。
戦国時代になると浄法寺氏は有力な勢力へと成長し、松岡、駒ケ嶺、大森の諸氏は浄法寺氏の一族とされる。また天正10年(1582年)の南部氏宗家の後継者をめぐる会議では「浄法寺修理」の名が見えることから三戸南部氏の重臣であったと考えられる。
天正19年(1591年)の九戸政実の乱では、浄法寺修理重安は南部信直の家臣として参陣し、槍5、弓3、鉄砲5丁、40人の兵で奥州再仕置軍に参加している。乱後の天正20年(1592年)に作成された「諸城破却書上」には「糠部郡之内 浄法寺 山城破 畠山修理持分」とあり破却は免れたが、同年の豊臣秀吉による家臣持城破城令で浄法寺城は破却された。
浄法寺氏は慶長5年(1600年)の岩崎一揆に参戦するが南部利直の命に背き浄法寺に帰還したため、所領を没収され宗家は断絶した。その後重安の次男・松岡正吉が明暦2年(1656年)に和賀郡藤根を拝領し浄法寺氏を再興した。

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浄法寺城は安比川によって開かれた低地のほぼ中央に位置し、南西から北東に流れる安比川の左岸、南東に張り出した台地上に築かれた。この地は糠部から鹿角に至る交通の要衝で、城内には街道を取り込んでいた。
八幡舘、大舘、新城舘、西舘、北舘で構成され、主殿区域とされる八幡舘は東西約340メートル、南北約200メートルの規模で、北東に鎮座する八幡宮への参道から西側の谷地が大手とされる。南東部には張出があり、南側斜面には数段の細長い平坦面と土塁があることから虎口を伴う馬出だったと思われる。
大舘は八幡舘の西に置かれ、東西約110メートル、南北約110メートルの規模で、街道が通る堀とで区画されている。東側には腰曲輪があり、南側の堀は二重となっている。
浄法寺城は市街地の中心に位置するものの開発からは免れており、北奥羽の拠点的な中世城館として良好に姿を留め、安比川流域の中心的城館として往時の姿を見ることができる。

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|所在地|岩手県二戸市浄法寺町八幡館|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|山城|

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