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横手城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の名門・佐竹氏が、江戸幕府による一国一城令後も所有した[[久保田城]]の支城。
築城年代は不明だが、藤原秀郷の流れをくむ仙北小野寺氏が築城し、その最盛期を築いた輝道(景道)が居城とした。
小野寺氏が勢力を伸ばした横手盆地は出羽国随一の穀倉地帯で、南北を羽州街道、東西を秋田街道が通る要衝でもあり、横手城は盆地のほぼ中央部に位置する朝倉山に築かれ、横手川と明永沼が天然の水堀となっていた。
本丸の周囲には切岸が設けられ、土留めのために一面に韮が植えられたことから、「韮城」の異名を持つ。

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小野寺氏は関ヶ原の戦いで東軍に与したものの、上杉景勝に通じて西軍に寝返ったために改易され、[[津和野>津和野城]]へ追放された。
横手城は小野寺氏と抗争していた最上氏に一時的に与えられたのち、[[水戸城]]から移ってきた佐竹義宣が所有した。
元和元年(1615年)に発布された一国一城令によって佐竹氏の支城も破却されていったが、横手城を重要拠点とみなした義宣が元和6年(1620年)に幕府に働きかけたため、大館城とともに久保田城の支城として存続が許された。
これは源氏の名門である大大名の佐竹氏が平安時代以来の本拠である常陸国を離れ、出羽国へと減転封となったことへの見返りだったとも言われる。
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元和8年(1622年)には、徳川秀忠の暗殺を図ったとされる[[宇都宮城]]釣天井事件でこの地に流罪となった本多正純・正勝父子が、死去するまで横手城に幽閉されていた。
寛文12年(1672年)に佐竹氏の庶流である戸村義連が城代となり、以後幕末に至るまで戸村氏が城代を務めた。
戊辰戦争で久保田藩は奥羽越列藩同盟を脱退して新政府側についたため、[[陸奥仙台藩>仙台城]]と[[出羽庄内藩>鶴ヶ岡城]]の攻撃を受け落城した。

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|所在地|秋田県横手市|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|連郭式山城|

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