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梁川城 の変更点

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[[桑折西山城]]以前の伊達氏の居城で、福島盆地北東端の河岸段丘上に立地し、南北を広瀬川と塩ノ川が流れる。特に広瀬川は段丘崖を形成し、後背湿地が城下に広がるなど天然の要害を形作っている。
梁川城は、本丸の伊達氏館を中心として周囲に寺社が配置されるという中世都市の景観を作り出しているのが特徴で、仙台藩伊達氏が編纂した『伊達氏正統世辞考』には室町時代の伊達氏第11代当主伊達持宗が梁川亀岡八幡宮や輪王寺を造営したと記されている。
近年になって行われた発掘調査では、15世紀のものとされる八幡宮の参道跡が見つかり、持宗の時代に八幡宮が機能していたことが明らかとなった。しかし八幡宮の周辺では鎌倉時代の出土品もあることから、八幡宮は鎌倉時代に造営されたとも考えられており、梁川城もまた鎌倉時代には築かれたとされる。
この梁川亀岡八幡宮は伊達氏館の北に位置し、北東には輪王寺、そして南東には東昌寺が置かれた。このように八幡宮を北に配置し、これを中心に街道や諸施設が展開されるという都市計画は[[鎌倉>鎌倉城]]に類似するものであり、桑折西山城にも受け継がれたと考えられる。

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梁川城の本丸である伊達氏館は主殿や会所、庭園などで構成され、足利将軍家の邸宅である[[花の御所]]と似た構造となっている。東北において居館で庭園が設けられた例は数少なく、また東昌寺跡には足利将軍家が使用したものと同じ瓦が出土しており、これも東北では伊達氏のみが使用したとされることから、伊達氏が室町幕府との関係を背景に権威を高めていったことがうかがえる。
梁川城の本丸である伊達氏館は主殿や会所、庭園などで構成され、足利将軍家の邸宅である[[花の御所>室町第]]と似た構造となっている。東北において居館で庭園が設けられた例は数少なく、また東昌寺跡には足利将軍家が使用したものと同じ瓦が出土しており、これも東北では伊達氏のみが使用したとされることから、伊達氏が室町幕府との関係を背景に権威を高めていったことがうかがえる。
その後梁川城は蒲生氏を経て慶長3年(1598年)に会津に入った上杉景勝によって支配され、須田長義が梁川城に入った。
この時代に梁川城はかつての城主であった伊達氏に対抗する城として大きく改修された。『梁川城絵図』には伊達氏館があった場所は本丸とされ、その周囲には堀がめぐり、東には櫓が描かれている。またその場所には野面積みの石垣が残っており、蒲生氏時代、あるいは上杉氏時代のものと思われる。
本丸の東には金沢堀と呼ばれる南北に伸びる大規模な堀が、北には三の丸とされる曲輪が、南には櫻館と記された曲輪が、そして西には二の丸・三の丸が描かれている。これらのことから、伊達氏時代に輪王寺や東昌寺があった金沢堀以東は蒲生氏・上杉氏時代にはあまり手が加えられず、逆に伊達氏があまり手を付けなかった西側は蒲生氏・上杉氏によって開発が進み、町場が形成されていった。
その後梁川城は寛文4年(1664年)に上杉氏が所領の一部を没収された際に幕府領となり一時廃城となったが、文化4年(1807年)に松前章広が松前藩から転封してくると陣屋として整備された。章広は文政4年(1821年)には松前藩に復帰し、これに伴って梁川城も用いられなくなった。

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|所在地|福島県伊達氏梁川町桜岳・鶴ケ岡|
|現存状態|石垣、堀、土塁など|
|城郭構造|平山城|
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